降り続ける冷水
入院して、はや1ヶ月。もう見過ぎてしまって、病院の真っ白な天井にも愛着が湧いてくる始末だ。ずっと病室に閉じこもりっきりだと、気が滅入ってしまうので、看護師さんに車椅子に乗せてもらって院内を散歩する。ふと、全く動かなくなってしまった足へ視線を移した。病衣で隠されているけれど、これを捲ってしまえば、魚のような鱗がへばりついている。"気持ち悪い"そう思った途端、頭をブンブンと横に振った。見なかった振りをして、再び車椅子を漕ぎ進めていくと、ナースステーションが見えてくる。
「血液検査データもWBCとCRPが少し高いくらいだったらしいよ」
「もともと、気管支喘息をもってる方ですもんね」
「でも、そうなると原因が分からないですよね」
"ギラン・バレー症候群"
最初の診断は、それだった。だけど、詳しく検査していくうちに、ギラン・バレー症候群ではなさそうだと言われて、それが違うのではという疑惑が出始めた。その結果、いまだに病気の診断がついていない状況だ。発熱、筋力低下による歩行困難、下肢にできた魚の鱗のような湿疹。最近ではそれが、上半身まで上がってきている。そして、奇妙なことに沢山の検査を受けたのに、喘息の持病があるとは言え、どのデータも正常値なのだ。
「っ……」
1人の看護師さんと目が合った。その瞬間逸らされる。自分が気持ち悪いって思っているくらいだから、他人はそれ以上に思っているんだろうな。そう思うと虚しくなった。散歩する気分ではなくなり、車椅子を漕いで自分の病室へと急いだ。その途中、ピロンッとスマホが鳴る。
[ねえ、会いに行って良い?]20:00
宛先を確認して目を見開いた。会いたいと思う気持ちと会いたくないという気持ちが入り交じる。でも、結局、[今、家にいないから無理かな]と送るので精一杯だった。複雑な感情を悶々と抱えながら病室に辿り着き、やっとの思いでベッドに横になる。
[知ってる。入院してるんでしょ]20:10
[お見舞い行きたいんだけど、いつなら大丈夫?ってか、何処が悪いの?]20:11
今まさに自分を悩ませていることを問われて、更に心が苦しくなった。その言葉に、[わからない]と返すので精一杯だった。
[どういうこと?]20:12
20:13[原因不明だから…]
[え。大丈夫なの?]20:13
大丈夫か大丈夫じゃないか、その問いの答えが分からなくて既読をつけたまま固まってしまった。その問いに答えることが出来ずに、スマホを放棄して布団に潜り込む。ゆっくりと闇の中へと落ちていった。
▼
「尾崎ってさ、影山のことが好きなの?」
「えっ!!?」
「あ、その顔図星?」
「ちがっ、な、なんで…」
「女子たちが話してるのが聞こえた」
中2の冬。唐突に国見くんから、そんなことを聞かれた。
「好きな奴いないの?」
「…い、いないよ」
「ウソつき」
冷たい風と共に、冷ややかな視線が私の胸を突き刺した。私が好きなのは、貴方です。そんなことを言える勇気は持ち合わせていない。きょとんとした顔で、こちらを見つめる国見くんは、何を考えているのか分からなかった。
「本当だよ」
「ふーん…」
「本当に本当だから…!」
そんなこと聞いてくる国見くんこそどうなの?と思った。でも、視線はどんどん下を向くばかりで、結局それは聞けなかった。国見くんの口から、違う女の子の名前を聞くのが怖かったから。
「尾崎、顔色悪くない?」
「あ、ごめん…」
「なに、具合悪い?」
「ううん…大丈夫だよ」
「……そう」
納得がいかないような顔をしていたけれど、折れてくれたことに心底安心した。だけど、偶に思うときがある。あの時、きちんと自分の思いを伝えていたら?そしたら、変な勘違いをされなかったのかもしれない。
「尾崎にとって、結局1番は影山なんでしょ?」
「国見くん」
「隠すことないじゃん。……応援、するし」
「本当に違うから!!」
「え、…ちょっと、尾崎」
1番言われたくない言葉だった。報われない恋だと言うことは分かってる。イケメンで頭も良くて、運動神経の良い国見くん。女の子の誰もが憧れる国見くんの隣に、平凡な私は並ぶことは出来ない。そんなこと分かってた。分かってたはずなのに。
「……私は、新山女子に行くよ。そこで、バレーを続ける」
それからそう言った話題は避け続けた。高校に進学すれば、忘れられるだろうと思ってた。いつか大人になって、良い思い出になれば良いって。そう思ってた。なのに、
「尾崎、」
▼
「尾崎っ!!」
はっとなり、目を見開くと焦った顔をした国見くんの顔があった。頬が濡れている感覚があって、泣いていたのだろうと言うことがわかる。
(国見、く…なんで…)
時刻は9時過ぎを指していた。昨夜から、今の今まで眠り込んでいたようだ。音にならない疑問を汲み取ってくれた国見くんが口を開く。
「受付でおばさんに会ったら、案内してくれた」
今この場にいない母親を恨めしく思う。
「影山は知ってるの?」
その言葉に、首を横に振った。
「……そう」
入院してから連絡は取っているものの、飛雄はお見舞いにはきてくれていない。小さい頃から入退院が多い私だから、きっと、またかと思ってる程度なのだろう。それに、今は部活が忙しいのだ。烏野高校は、白鳥沢を破り、春高の全国への切符を掴んだばかりだ。
「なんだよそれ」
途端に不機嫌になる国見くん。高校に入ってから、飛雄は丸くなった。苦手だったコミュニケーションを学ぶようになっている。だけど、やっぱり彼らの溝を埋めることは無理なのだろうか。どうしたら、彼らは、
「腹立たないの?」
(あいつの1番はバレーだから)
枕元にあったスマホを手に取って、文字を打ち込んでいく。それを見た途端に、さらに眉間に皺が深く刻まれた。それでも、まだ何も聞かないでいてくれるのは彼の優しさか。それとも受付で会ったという私の母親に何かを聞いているのか。
「……ムカつくんだけど」
徐に私の手を取った国見くんは、私の手を握りしめる。あの頃より少し痩せてしまった手を見て、痛々しそうに俯いた。そんな顔をさせたくないのに。そう思うと悲しくなる。
「俺だったら、そんな顔させない」
「……?」
「なんで、俺じゃダメなの」
ゆらゆらとカーテンが揺れて、冷たい風が私の頬を撫でていった。
20210615