きらきら星に願いを

録音器を力強く握りしめた途端、壊してはいけないということが頭を過ぎり力を緩める。腸が煮え繰り返る感情を封じ込めてはおけず、力の限り自分の太ももを殴った。

「菫、」

気持ちよさそうに眠る彼女は、俺の思いなんて知る故もないだろう。内蔵されている音を全て聞いた。1番多く発せられていたのが、俺の名前な気がしてならない。助けを呼ぶ声も、痛みに耐える声も、恐怖で震える声も。その全てを俺の名前にのせていたように見受けられる。あの場に自分がいなかったという事実だけが、どうしようもなく苦しい。仕方の無いことだが、もっと対処法があったのではないかと思わされる。

「け、んじろ…」
「……?菫?」

唇と唇が触れ合って深く抱きしめ合った後、こわい、と彼女はそう言った。何に対することなのかは容易に察せられる。"そういうこと"が、トラウマを思い出させる引き金になっているのだろう。頭に過ぎったのは"PTSD(心的外傷後ストレス障害)"だった。あの時、傍に居ることが出来なかった俺が、今してやれることは、そんな菫に寄り添うことだけだ。

「……けんじろう?」
「ワリ、起したか?」
「……ん、あさ?」
「まだ5時だ」
「おべんきょ、する…の…?」
「ああ」

もぞもぞ、と布団から起き上がった菫は、眠たげな目を擦り此方を見つめてくる。まだ寝てろという意味を込めて優しく頭を撫でてやると、数分の間に寝息が聞こえてきた。ほっと一息吐く。

引っ越してきて1月が経った。俺達の関係は相変わらずなまま。だが、それで良いと思っている。少しずつ、少しずつ。彼女の心の傷を塞いでいくのが俺の仕事だ。菫と2人の生活は、とても穏やかに流れている。勉強中に時折グランドピアノの音が耳を掠める。それは、まるで喫茶店で勉強しているかのような錯覚を覚えた。何処の喫茶店よりも、この場が1番勉強が捗る。偶に聞こえるミスタッチも、上手く行かなくて苛立っているのだろう音も、全てが心地よいと思えるくらいだった。

「……賢二郎、」
「なんだよ」

なるべく時間を取るように努めた。菫に呼ばれたら、必ず反応してやるように。時折訪れるフラッシュバックは、彼女を追い詰めていく。

「来ねえの?」
「……ん」

後ろを振り返り両手を広げれば、スリスリと子猫のように身体を寄せてくる。また、だ。

「け、んじろ…」
「俺は此処に居る」
「う、ん…」

首筋に手を添える。落ち着いたリズムになっていく脈と、普段通りの体温が俺を安心させた。こうやってガス抜きをしてやらないと、コイツはまた倒れてしまうだろうから。

「賢二郎…好き…」
「ああ、」

抱き寄せる腕に力が入った。小刻みに身体を震わせる菫を抱き上げて、ピアノがある部屋へと足早に向かう。二人で腰掛けると狭く感じる椅子に並んで座った後、俺は両手を鍵盤に乗せた。こてり、と肩へ体重をのせた菫は目を閉じて、俺が音を奏でるのを待っている。

ド、ド、ソ、ソ、ラ、ラ、ソー。

高校時代。ピアノが弾けなくなった菫と一緒に弾いた曲。俺が唯一弾ける曲。

「いつの間に、こんなに上手になってたの?」

その理由を告げるのは、小っ恥ずかしいが、それが菫に少しでも力を与えるのなら。俺は何度だって教えてやる。

「高3の冬、駅でお前と弾いたこの曲が好きになった」
「……うん、私も」
「これをきっかけに、またピアノと向き合えるようになっただろ。だから、また、何かあったときのために、たまに弾いてた」

それと、菫が留学中にピアノの音が恋しくなった。そのことまでは伝えられなかったが、隣に座る菫から、クスクスと柔らかい音が零れ落ちてくる。そのことに安堵しつつ、音を紡ぎ続けていると、やさしい低音が加わってくる。

「私ね、数ある曲の中でこの曲が1番好きなの」
「……へえ」
「賢二郎と好きな曲は一致しなかったね」
「俺は嫌いなんて言ってねえけど」
「ふふっ。私は"賢二郎の"この曲が1番好きなんだよ?」
「……それは理解しかねる」
「ほらー」

音と音を紡いで、それが混じり合って。時折手と手が触れる。やがて、菫が手を止めて、俺の方へと倒れ込んできた。そして、久しぶりに彼女の方から唇に触れてくる。

「な、」
「ありがとう、賢二郎」

じわりじわり、と凍った心を溶かしていくように。それは、ゆっくりと流れていく。









「パパー!早く早く!」
「おい、走ると転ぶぞ」
「ねえ、ママまだかなー?」
「まだ、開演20分前だぞ」

ニコニコとした笑顔を向けてくる小さな命が、俺と菫を更に強く結んでいく。

『ご来場くださいまして、誠にありがとうございます』
「ママの声だー!」
「シーッ」

プログラムに記されている曲目の最初はきらきら星。最後はノクターン。その他にも羅列にあるのは、俺が高校時代に毎朝聞いていた曲ばかりだ。

『本日のレパートリーは、全て愛しい人に捧げます』
「愛しい人?」
「……大好きって意味だ」
「パパのことだねー!!」
「だからシーッ」

俺のためだけに作られた1つのコンサート。これから先の人生、もっと曲目が増えていくのだろう。そのことに、とめどない愛しい想いが溢れていく。それを、

「パパー!ママキレイだね」

一心に、小さな命に降り注ぐのだ。

「……当たり前だろ」







20210525 [完結]

応援、ありがとうございました。




×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -