やさしき誓い

ベッドの上で抱きしめられた途端、「ごめん、こわい」って言ってしまった私を怒ったりせず、何を考えているか分からない顔で「分かった」と言ってくれた賢二郎は、そのまま机に向かって勉強をはじめてしまった。泣くことを堪えられない私は、シャワーを浴びに行った。頭から大量のお湯を浴びながら、考えてしまうのは賢二郎のことだった。このまま、そういうことが出来なかったら、どうしよう。そのせいで、賢二郎に愛想を尽かされてしまうのが1番こわかった。

「いってらっしゃい」
「おー…。あ、菫。アレ見とけよ」

同じような朝と夜を繰り返して、私たちの日常は穏やかに流れていた。ただ1つ違うことと言えば、キス以上の行為を求められることが無かった。

「アレ?」
「……俺の机の上に置いてあるやつ」
「うん」
「……お前さ、」
「なに?」
「いやいい。じゃあな」

事務所と契約してから、私の送迎は事務所の方がやってくれている。これで、賢二郎に迷惑をかけなくて済むと思ったのに、当の賢二郎は、とても不満そうだった。バタン、と音を立てて玄関のドアが閉まる。普段は気にならないのに、何故か、その音が大きく聞こえたのだ。

「……賢二郎、」

カナダに居たときよりも、今の方が、ずっと遠く感じる。見えなくなった後ろ姿を思い描きながら、洗濯をするために洗面所に向かった。問題があるのは自分だと分かっている。賢二郎は、私の事を尊重してくれているし、ストーカーの件も警察に行ってくれたり、諸々の対応を全てやってくれた。それなのに、いつまで経っても進歩しない私のせいで、出来ていなかった溝が出来ていくように感じるのだ。

「え、」

洗濯籠に入れられている服を、洗濯機に入れているときだった。賢二郎のシャツに口紅の跡がついているのを見つけてしまったのだ。私が持っていないような、真っ赤なルージュの色をしていた。ガクンと膝から崩れ落ちる。でも、それでも頑張らなきゃと身を引き締めた。







家事を全てやり終えた後、ヘッドホンをしてピアノに触れる。賢二郎のマンションは防音ではないので、ピアノの練習は電子ピアノでだった。グランドピアノが使えるマンションに引っ越したいとは思ってて、留学前にそんな話もしていたけれど、迷惑しか掛けていない今の状況で、そんなこと言えなかった。こびりついてしまった恐怖を、はやく洗い流してしまわなければ、そんな想いをかき消すように、ひたすらピアノにかじりつく。

「……っ、」

昔、恩師が音楽には人の心を動かす力があると言っていた。その通りだと私も思う。悲しい気持ちを楽しくさせてくれたり、勇気を与えてくれたりする。でも時に音楽は、悲しい気持ちや怒りを助長させてくれる。心地よい音で、不快な音でも。

「!」

奏でていた音の中に、本来はない五音が流れてくる。びっくりして手を止めた。低くて奏でていた旋律に全くマッチしない音達。恐る恐る其方へと視線を移すと、鍵盤の上に第三者の手があった。この場に登場出来る人など、只1人。

「け、賢二郎……」
「いつにも増して熱心だな」
「えっと、」

壁に飾られている時計に目を移すと、時刻は19時過ぎを指していた。

「ごめんなさい…」
「何が?」
「ご飯も何もしてなくて、洗濯も「それは取り込んどいたけど」…っ、」

窓の近くに目をやれば、朝干した洗濯物が部屋に干されている。やばい、呆れられた。怒られる。嫌われる。どうしよう。負の感情がどんどん押し寄せてくる。泣きたくなるのを堪えていると、

「触るぞ」
「え、」

やさしくそう言われたかと思えば、私の首に手が添えられる。顔を上げると心配そうな顔をした賢二郎がいた。思っていた反応と違って、どうしていいか分からなくなる。不安になっていた感情が、落ち着いていく。

「机の上のやつ、見たか?」
「………」
「見てねえのな」
「………」
「おい、菫」
「は、はいっ」
「……はあ。聞こえてんのかよ。返事くらいしろよな」
「………」
「おい」

どすのきいた声にびくりと身体が震える。その途端、盛大な溜息を吐かれた。やばい、泣く。そう思ったときには時既に遅しで、目から雫が零れ落ちていた。そんな私を見逃すわけがない賢二郎に顔を覗かれる。

「なんで泣くんだよ」

隠してしまっても、目の前の彼にはお見通しなようだ。

「なあ、菫」

普段なら広く感じるピアノの椅子に、賢二郎の手が乗る。そして、片腕が背中に回ってきて抱きしめられた。ふんわりと香るやさしい香りは、私が大好きな柔軟剤の香り。お揃いの香り。

「菫、どうしたんだよ」
「……っなんでもない、」
「なんでもなくはねえだろ、言え」
「………」
「俺には言えねえのかよ」

悔しそうな声音に続いて、舌打ちまで聞こえてくる。そして、賢二郎の身体がゆっくりと離れていった。もうダメだ、と思った途端、再びヘッドホンを装着させられて、狭い椅子に賢二郎が割り込むようにして腰掛けてくる。

「……あ、」

ド、ド、ソ、ソ、ラ、ラ、ソー。ファ、ファ、ミ、ミ、レ、レ、ド。

いつかの日。ピアノが弾けなくなった私の前で、賢二郎が奏でてくれたメロディー。あの時と違って、その旋律はとても滑らかで、拙かった指の動きがウソのように美しかった。反対側の手が違う旋律を奏ではじめる。いつの間にか、涙は引っ込んでいて、その姿に見惚れていた。音を全て奏で終わった後、やわらかい笑顔を浮かべた賢二郎が、

「落ち着いたか?」

と言ってくれる。こくり、と頷いた。

「言えるようになったら、教えろよ」
「……え」
「お前が言いたくないのを無理矢理聞く気はねえから。ただ、」
「ただ?」
「菫は、ストレスが全部体調で出るだろ。だから溜め込むなよ…っつっても、発散も苦手なの知ってるけどな」

パチパチ、と瞬きを繰り返す。私ってそうなのか。確かにストレスが溜まると熱出したりしてたかもしれない。そんなこと気づかなかった。私の知らない私に関することまで、賢二郎は知っているのか。気づけば、口が開いていた。

「賢二郎のシャツに、真っ赤な口紅がついてた」
「は?」
「私が持ってない色だった」
「………」

沈黙が流れる。間としては、そんなに長くはなかったのだろうけど、私には、とても長く感じられた。だって、こんなこと聞いてしまうなんて疑っているようなモノだ。

「それ多分、太一の彼女のやつ」
「……え、」
「昨日太一と会ったって言っただろ?その時、太一の彼女も一緒に居た」

3人で並んで帰っていると、駅の階段で川西くんの彼女が躓いしまったらしい。それを、たまたま近くに居た賢二郎が支えただけ。その時に、もしかしたら服に当たったのかもと説明された。途端に襲ってくる羞恥心。

「っごめんなさい、」
「そのせいで荒れてたのか?」
「………」
「これでも、めちゃくちゃお前のこと大事にしてるんだけど、伝わってねえのな」
「ちがっ、」
「違わねえだろ」

並んで腰掛けていた椅子から立ち上がった賢二郎は、そのまま部屋の方へと歩いて行ってしまう。どうしよう、幻滅された。いやだ。慌ててその背中を追いかける。勢いよく扉を開けて、机の近くに居る賢二郎に抱きついた。

「やだ、きらわないで」
「菫」
「ちゃんと、するから。世間一般の恋人同士がするようなことも、賢二郎がしてほしいと思うこともする。賢二郎が嫌なことはもうしないし、聞いたりしないから。嫌わないで。捨てないで。私が、悪いの分かってるから。「菫」だから、」

言葉を続けようとした途端、唇を塞がれる。久しぶりの長めのキス。酸素が足りなくなって苦しくなって、賢二郎の胸板を叩いてもやめてくれなかった。苦しくて苦しくて。でも、嫌じゃなくて。目尻から再び雫が零れ落ちた途端、ようやく離れていく。

「見ろ」

目の前に差し出されたのは、透明なファイルに入った数枚のプリント。ペラリ、と紙を捲っていくと、そこには物件情報がいくつかあった。殆どが2LDKのマンションの情報で、所々担当してくれた不動産屋の人の字で、"防音"という字が書き込まれている。

「今度の休みに一緒に内見行こうって、誘うつもりだった」
「賢二郎、これ…」
「お前と身体目的で付き合ってるんじゃねえし」
「……う、」
「グランドピアノ使いたいって言ってただろ。ストーカーも捕まったし、お前もこんな状況だから、同棲止めるべきかとも思ったけど、それは俺が無理だから」
「え、」

首元に下げているエメラルドのネックレスが、賢二郎によって外された。丁寧にそれを箱にしまった後、賢二郎は鞄からそれと同じくらいの大きさの箱を取り出す。そして、その中から取り出したシルバーのリングがかかったネックレスを、私につけてくれた。

「俺は、菫とずっと一緒にいるつもりなんだけど、そっちは違うのかよ」
「賢二郎、これ…」
「本物をやるのは、何年も先だけどな」

__愛してる

賢二郎の首元を見れば、全く同じものがそこに下げられていた。


20210521



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