想い出のノクターン

意を決して音に出した言葉を、やさしく拾ってくれる君だから、好きなんだ。

「菫?」
「うん…」

相談がある、と言った後、なかなか続きが出さないでいると、賢二郎が私の方へと寄ってくる。私はそのまま擦り寄って、賢二郎の胸元に額をグリグリと押し付けた。

__カナダに、ですか?
__姉妹校との交流でね。期間は半年。そこの大学で、私の大学時代の友人がピアノを教えてるんだ。是非、最上さんをと思って。あの頃とは、もう違うでしょう?

賢二郎は、多分、私が言うのを待ってくれてるんだろう。

「おい。なんだよ」

ただ、そんなに気が長くはないので、痺れを切らしてしまったのか、顔が歪んでいる。そんな顔をしてもかっこいいのだから狡い。私は、両手を伸ばして、彼の頬に触れた。そして、顔を寄せて、唇にそっと触れてみる。

「……煽ってんの?」
「違う。あと、睨まないで」
「チッ…で?なに?」

ぶっきらぼうな物言いで、明らかに少し機嫌が悪くなっているだろうに、やさしく抱き寄せられる。ああ、こういうところが好きなんだよなあと、場違いなことを思った。そっと、賢二郎の胸元を押す。そして、鞄の中に入っている教授から頂いた資料を取り出した。

「……お前、これ」

内容を一読した賢二郎の顔は、とても嬉しそうだった。凄えじゃんと言って、微笑んでくれる。だけど、私の手元が震えてるのを見つけて、その手を取られる。

「何で、そんな顔してんの?ずっと夢だったんだろ。海外で音楽学んでみたいって言ってたし」
「……うん」
「なに俺?」
「違うけど、違わない?」
「あ?」
「ヒィッ…賢二郎も関係してるけど、賢二郎じゃなくて私の問題というか…」

今まで、コンサート前は、いつも賢二郎に甘えてきた。賢二郎がいない中で、大きな舞台に立ったことはない。蘇ってくるのは、高校の時の、あの日。

__…先生、私、弾けません

「ピアノ…また弾けなくなったら、どうしよう」
「!」

賢二郎がいたから。私は、音楽を嫌いにならずにいられた。私が誰よりも大好きな人が、私のピアノを大好きだと言ってくれたから。

「俺は、そろそろ大丈夫かと思ってたんだけど」
「え?」
「…大学に入ってからのコンサートで、上手いことやってたじゃねえか」
「そ、れは…賢二郎が毎回見に来てくれたから」

広いコンサート会場の中で、彼の姿を見つけられなかったことはない。

「だったら、試しに今度のコンサート、行くのやめてやろうか?」
「えっ…」
「俺がいなくても大丈夫って証明できたら良いんだろ」
「違っ…やだ…!」
「………!」

どうしてそんなことを言うのだ。そんなことを言われるなんて思ってなかったから、胸から込み上げた感情が、雫となって、頬を流れ落ちていってしまうではないか。

「泣くなよ」
「賢二郎が悪いんじゃんか…」
「つーか、不安なのはそれ?」
「うん…だって、賢二郎のことは信じてるもん」
「…っ……ほんと、お前…そういうとこだぞ」

相変わらずの綺麗な指先が、流れ落ちる雫を拭っていく。習慣とは素晴らしいもので、賢二郎はバレーをやめてからも手先を手入れしていた。それをすると落ち着くのだという。私は、この手が大好きだ。その手の上に自分の手を重ねる。

「コンクール前に、毎回電話してやる」
「何時間時差があると思ってるの」
「それでも菫が望むなら。やってやる」
「……なんで」
「言っただろ?俺は、菫の1番のファンだから。…ったく、こんな小っ恥ずかしいこと、何回も言わせんな」
「いだっ」

ペチン、とデコピンを喰らった。

「とりあえず、来週のは行ってやる。お前に足りねえのは、もう自信だけなんだよ。早くつけろ馬鹿」
「……えぇ」
「留学、受けろよ。絶対だからな」

そうやって、また、背中を押された。







迎えたコンサート。これが終われば、教授に留学をどうするか話に行くことになっている。賢二郎は来てくれると言ったのに、この日はじめて、私はピアノを弾く前に賢二郎の姿を見つけられなかった。

(…なんで)

直前にスマホを見たけど、何も連絡は来てない。何か事故にでもあったのだろうか。そんな不安が心を支配していく。集中しなければと思うのに、なかなか弾き始めない私を不思議に思ったのか、やがて、観客がどよめきはじめた。

「……菫」

そんな中に、小さく聞こえてきた大好きな声。やっぱり姿は見つけられない。だけど、

__俺さ、この曲が菫が弾く曲の中で1番好き

♪〜

高校時代。ピアノの練習が辛くて逃げ出したくなることが多かった。大好きだったものが大嫌いになりそうだった。そんな時、毎朝1人でランニングする男の子を見つけた。同じクラスの白布くん。牛島さんに憧れて、一般入学してきた男子生徒。その程度の認識しかなかったけれど、全国出場常連の強豪校のスタメンになるべく頑張っているという話を聞いた時、負けてられないなと思った。

__なあ、試しで俺と付き合ってみないか?

憧れだった白布くんから、お試しの恋人になって。その隣に相応しい人になるために頑張ることは苦しいことも多かったけれど、共に入れる時間の幸せの方が勝った。真意の読み取りにくい賢二郎と関係を築くのは、とても難しかったけれど、賢二郎の背中を追いかけてきたから、私は頑張ってこれたんだ。







「変装してたの!!?」

コンサートを終え、川西くんと瀬見さんと賢二郎でご飯に行った帰り道、唐突に告げられた。通りで見つけられないはずだ。

「太一たちと一緒にいたから、気付くかと思ったけどな」
「……分からなかった私が悪いみたいに言わないで」
「まあ、大丈夫だったじゃねえか」
「それは、賢二郎の声が聞こえたから」
「は?」
「名前呼んでくれたでしょ?」

そう言えば、これでもかと眉を顰められる。「なにその顔」と指摘すれば、「俺はお前の聴力にビビってる」と返された。

「あ、菫。ちょっと後ろ向いてろ」
「なんで?」
「良いから。向け」

渋々言われた通りにする。すると、「目、瞑ってろ」とまで言われた。抗議しても賢二郎の機嫌が悪くなるだけなので、大人しく従うことにする。しばらくそうしていると、首元にひんやりとした何かが触れた。

「良いぞ」

その声を合図に、目を開ける。首に視線を移すと、シルバーの鎖に、小さなエメラルド色の宝石が1つ施されたネックレスがあった。

「これ…」
「留学中、ずっとつけてろよ」

エメラルドは5月の誕生石だ。賢二郎の宝石。自分の宝石を選ぶあたり、目の前の男は分かってらっしゃる。

「ありがとう」

__お守りだ

「安物だけどな。行ってこいよ」

数ヶ月後、私は日本を飛び立った。






20210215



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