賢二郎のことを信用していないとか、疑っているとか、そんなことはない。
翌日は、賢二郎が目覚める前に目が覚めた。鞄の中からメモ帳を取りだして、冷蔵庫に貼り付ける。昨日の夜はかなり乱暴だったので、主に腰が痛かったけれど、もう文句も出てこない。怒る気にはなれなかった。
「……またね、賢二郎」
さらりとした前髪を軽く撫でた。会う約束をしていないのに押しかけた私も悪い、と言い聞かせる。素直に相談したいことがあるのだと言えば良かった。そしたら、賢二郎は飲みに行くのをキャンセルしてくれただろう。賢二郎はそう言う人だ。きちんと言葉にしないと分からない。察して欲しいと思うこともあるし、出来れば察してやりたいと言ってくれたこともあるけれど、そういうことが苦手な人なのだ。そんなことはわかっている。医者を目指すだけあって、体調不良にはすぐに気がついてくれるけれど、何もかもを完璧に察せれる人なんていないだろう。
少し、頭を冷やそう。このままでは喧嘩になってしまいそうだ。そんなことにはなりたくない。イライラしている気持ちを落ち着かせる。そんなことを何度も言い聞かせながら自宅へと急いだ。
自宅へと辿り着くと、今日は何も入ってなかった。代わりに玄関ドアに張り紙があって、震える手を伸ばして、それを剥がす。
"昨日は何処に泊まったの?"
はじめの文章は、そんな文字からはじまっていた。文章には似合わず、可愛らしい文字をしているななんて思ったのは一瞬で、慌てて辺りをキョロキョロと見渡す。そして、周りを警戒しながら鍵を開けて家の中に入り、直ぐさま鍵を閉めた。きちんとチェーンもかける。その途端、安心したのか身体から力が抜けていった。ほっと一息吐いて、ズルズルと玄関前に座りこむ。
「……むり」
ぽつり、と弱音が漏れた。やっぱり昨日聞いて欲しかった。何なら今日の朝、叩き起こしてやれば良かっただろうか。深いため息を漏らした後、とりあえずスマホをタップして、大学に今日の講義は休むと連絡を入れる。そして、今後のことをどうしようかと頭を悩ませた。とりあえず、張り紙は全て読むのは気持ち悪かったので、すぐにビリビリに破いてゴミ箱に捨てた。このまま自宅にいるのは危ないかなと思ったけれど、かと言って行く当てはない。友人の家に行って友人を危険に晒すわけにも行かない。となれば、選択肢は1つしかない。
「けんじろう…」
その場にいない彼の名前を呟いて虚しくなる。もう起きてるだろうか。電話をかけたら出てくれるだろうか。いや、起きていたら多分謝罪のラインが送られてきているだろう。起きているのに、それすらなかったら、私はもう彼の愛を疑ってしまいそうになりそうだ。ズキンズキンと痛む頭を抱えて、とりあえず布団に潜り込んだ。
▼
ハッとなって目を覚ますと、時刻は15時過ぎだった。半日も眠ってしまっていたらしい。上半身を起した途端、鋭い頭痛が私を襲った。それに加えて悪寒までやってくる。最悪だ。なんとか起き上がって、救急箱を手に取り、中から体温計を取り出す。それを脇に挟んだ後、スマホに目を通すと賢二郎から何件かの着信とメッセージが来ていた。
[不在着信]8:32
[ごめん]8:34
[今日会えるか?]8:34
[悪かった、菫。頼むから連絡ください]12:25
[不在着信]13:01
[不在着信]13:02
未読にしたままその画面を閉じる。こんな状態じゃ会うこともできないし、電話で冷静に話しもできないだろう。
(38.5℃…)
そして、想像していたよりも高い熱に、目が回る。なんとか気力で意識を保ち、冷凍してある白米ご飯だけを取り出して、レンジで解凍して、気力で胃の中に入れる。友達に助けを求めたいが、最近の出来事を考えるとそれは怖い。となると、賢二郎を頼るしかないのだけど、気まずい。別に私は何も悪くないと思うのだけど、助けてって言いにくい。
そもそも彼は、試験で忙しいって言っていたのに。飲み会に行く時間はあるのかと言ってやりたくなる。そう考えると余計にイライラしてしまう。そんなことを思いながら、なんとかご飯一杯分だけ胃の中に入れて、市販の風邪薬を飲んで横になった。
▼
翌日。昨夜は散々で一睡も出来なかった。食べたものは全部出てきてしまうし、その中に薬も入っていたのだろう、体調は悪化するばかりだった。これは無理だと友達に連絡を入れると、すぐに飛んできてくれた。
「昨日休んでたから心配してたんだよ、家に来てもいなかったし」
「……ありがとう、ポンちゃん。うん?昨日って講義被ってたっけ?」
ポンちゃんというあだ名は小学校の時に付けられたらしい。声楽科に在籍する彼女は、彼女の声楽テストの時に、私がピアノの伴奏をすることで知り合った。
「あー…来てないって、ピアノ科の子が言ってたの聞いたの。で、本当に大丈夫?今日、大学終わったら泊まりに来ようか?」
その申し出は大変有り難かったけれど、ストーカーのことを思い出して首を横に振る。もし、彼女の身に何かあれば凄く申し訳ない。
「夜は、彼氏が来てくれるから」
とっさに吐いた嘘に、虚しくなった。
「ああ、けんじろう君だっけ?長いよね、高校からでしょう?もう5年くらい?」
「うん……」
「でも確かけんじろう君って、今、試験期間なんじゃなかった?大変なら私が付いてるよって言ってみて?」
「よく覚えてるね…でも大丈夫、賢二郎に頼む…」
「……そっか、分かった!何かあったら、すぐに言ってね」
昨日今日とその賢二郎からの連絡を無視してます、なんて口が裂けても言えないな。とは言え、消化に優しい物をポンちゃんがたくさん買ってきてくれたので、とりあえずは、大丈夫だろう。
「玄関まで来るの大変でしょ?鍵閉めてポストに入れておくから、落ち着いたらチェーンして鍵回収してね」
「ありがとう」
明日には熱を下げて、なんとかしないといけない。一昨日のことをそのままにして、このまま自然消滅になるのは嫌だ。とりあえず、ゼリーを胃の中に入れて市販の薬を飲んで眠りについた。
▼
次に目が覚めたときには、20時を過ぎていた。嘔気がして目が覚めて、洗面台へとダッシュする。クラクラと眩暈がするしガンガンとした鈍痛が頭に響いて、全く体調が改善されてないことを教えてくれた。洗面台で嘔吐いているとピンポンが鳴る音が響く。ビクリと身体を震わせながらも、洗面台から動けずにいると、
「菫?居るんだろ、話したい」
1番聞きたくて、1番聞きたくない声が聞こえてきた。その声を聞いた途端、ガタンと床へ崩れ落ちて倒れてしまう。
「菫?どうした?」
その音が聞こえてしまったのか、訝しげに名前を呼ばれる。そして、乱雑にノック音が響いた。だけど、私は其処へ辿り着く気力は無い。徐にポケットに入れているスマホに手を伸ばし、朦朧とする意識の中、賢二郎に電話をかけた。
『なんで電話なんだよ、』
「…っ、たすけ、て」
『菫?』
「チェーン、して、ない…から…」
普段ならしてるけれど、ポンちゃんが帰ってから鍵も回収出来てないしチェーンも出来てないままだ。それが今は好都合だった。賢二郎には合鍵を渡している。ガチャリ、と鍵が開く音がして、直ぐに賢二郎は私を見つけてくれた。
「菫?!おい!菫っ!」
洗面台で水を出しっぱなしにしていたせいか、その音を聞きつけたのだろう賢二郎は、すぐに私を見つけた。屍のようになっているであろう私の姿なんて、見られたくなかったななんて、場違いなことを思ってしまう。賢二郎は出しっぱなしになっていた水道の水を止めると、私の顔を覗き込んだ。
「……菫?分かるか?」
「けんじろ…」
背中に手を回されて、上半身が起される。そうすると、すぐに気分が悪くなってしまい、賢二郎の胸の中に顔を埋めた。賢二郎は片腕で私の背中を支えつつ、反対の手で私の左手首に触れた。
「お前、いつから、こんな状態だったんだよ」
「……きのう」
「病院は?」
「……いってない」
「は?ふざけんな。……もしかして、それで連絡寄越さなかったのか」
「ん…連絡、しにくかった…」
「しろよ馬鹿かよ、まじで」
それだけではないのだけど、言い返す気力は無い。冷ややかな言葉とは裏腹に、私の手首に添える手はやさしい。脈でも測っているのだろうか。ちらりと一瞬腕時計を一瞥した気がする。
「他に症状は?」
「……え、」
「あー、もういい口開けろ」
スマホのライトを灯して、口の中を覗こうとされる。いや、今さっき嘔吐したばっかりなんですけど…いやだいやだと首を横に振ると、再び盛大なため息を吐かれる。
「戻したのか」
「……うん、…なにもでてきてないけど、」
「何も食ってないとか言わねえよな?」
「………」
「ったく、うがいするか?」
こくん、と頷くと腰に腕が回されて、ゆっくりと立たせてくれる。高熱のせいか、フラフラとよろける身体をしっかりと支えてくれた。震える手でコップを探していると、賢二郎がすでにとって水を入れてくれていて、手渡される。
「あ、りがと」
「いいから、はやくしろ」
コップを受け取って、数回口を濯いだ。その様子をジッと見られているのが、とても恥ずかしい。なんとかうがいを済ませると、賢二郎の腕が膝裏にも回ってきた。
「…ちょ、」
「その様子じゃ歩けねえだろ。黙って抱えられてろ」
「なんかけんじろう、お医者さんみたいだね…」
「意味不明なこと言うな、まだ違えだろ」
そして、ゆっくりと浮遊感を感じて、抱き上げられる。なるべく振動が来ないように、ゆっくりと運んでくれているのが分かる。そっと、ベッドに寝かされて、やさしく額を撫でられた。
「悪かった…。一昨日の飲み会、普段捕まらない教授とだったんだ。人間性はクソみたいな人だったけど、医者としての実力は確かな人で…。一夜で尊敬の念が無くなったんだけど」
牛島さんのように、人間性も才能も両方素晴らしい人は滅多に居ないな、なんて苦笑している。
「別に、急に押しかけた私が悪いし…」
「そんなわけねえだろ。菫なら、本当にいつ来ても良いんだよ」
「賢二郎…ごめんね…」
「なんでお前が謝るんだよ。悪いのは全部俺だろ。つか話は後だ。寝ろ馬鹿」
その言葉を最後に、ゆっくりと意識が落ちていった。
20201227