菅原先生
憎たらしいアラームの音を乱雑に止めて、布団から這い出る。冷蔵庫から、昨日下準備していた食材を取り出し、フライパンに油をひいて加熱していった。静寂な空間に油の跳ねる音が鳴り響く。それだけだと、なんだか虚しい気持ちが消えなくて、テレビを点けた。「今日は午後から雨になるでしょう…」
お天気お姉さんが、そんなことを告げている。朝ご飯の支度が終わると、眠っている妹をたたき起こした。眠そうな目をこすりながら、なんとか起きた妹は、ふんにゃりと笑って挨拶してくれた。
「おねえちゃん、おはよう。今日はおやすみ?」
「お姉ちゃんは今日は夜勤だよ」
「夜勤ってことは…明日の朝いないの?」
「そうだね、ごめんね」
小学生の妹と2人で暮らしているという話を看護師長にしてから、毎週金曜か土曜が夜勤になっていた。その配慮に、流石母親をしているだけあるなと思った。
「ほら、楓。顔を洗っておいで」
「うん…」
フラフラとした足取りの妹を洗面台へと押し込む。顔を洗ってうがいをさせた後、ようやく朝ご飯だ。こうしてゆったりとした朝は珍しい。
「あ、これ書いておいたよ。担任の先生に渡しておいてね」
「うん!」
「学校は、どう?楽しい?」
普段、あんまり聞けない話を聞いてみると、とても元気に返事が返ってきた。
「楽しいよ!先生がね、優しくて格好良いの!」
どうやら、新任の先生は男性なようだ。今年教師1年目ということは、同じ歳の可能性が高いだろう。
「そっか、優しい先生で良かったね」
「うん!楓ね、菅原先生大好きー!」
「え、」
ガタン、と手に持っていたコップが落ちた。幸いプラスチックのコップだったので割れることはなかったけれど、中に入っていた牛乳が飛び出て、真っ白に床を染めていく。
「菅原…?」
「、お姉ちゃん大丈夫?」
「大丈夫…えっと、タオルタオル…」
慌ててタオルを持ってきて、零れてしまった牛乳を吹いていくと、楓もどこからかタオルを持ってきてくれたみたいで一緒に拭いてくれる。
「ねえ、楓。担任の先生って菅原先生って言うの?」
否定して欲しいと思った。こんな偶然あって堪るか。
「そうだよ。下の名前は…えっと…あ!仔牛さんだ!!モーモーって自己紹介でギャグ言ってた!!」
仔牛て…。すがわらこうし。菅原孝支。さあ…と顔が青くなっていく自覚がある。深いため息を吐いて頭を抱えた。これはもう確定だろう。
「そっか…そうなんだ…」
昨日の電話を思い出す。結婚式に参列するかどうか悩むどころではなくなった。参列しようがしなかろうが、どっちにしろ会わないと行けないことが、今、確定したのだから。
「ごちそうさまでした!お姉ちゃん、行ってきます!」
「いってらっしゃい。気をつけてね」
ランドセルを背負い玄関へと駆けていく妹の姿を見送る。
「あ、楓!傘持って行きなさい!」
「はーい!」
連絡手段を絶って引っ越しもしたのに、これから全て水の泡になるのだ。私の心には既に雨が降っていた。
20210105