すくう涙
警察の方でも捜索してくれることになり、私は、菅原に腕を引かれて自宅へと戻ってきた。玄関を開けて、1番に目に入るはずの楓の靴はない。それなのに、楓の部屋を開けて、姿を探してしまう。「桜、」
やさしく名前を呼ばれる。けれど、それに返答する余裕はない。いろいろな後悔が胸に押し寄せてきた。私が今日1日家に居れば?下校してくる小学生を見かけて、疑問に思っていれば?そうすれば、もっと早く捜索してもらえたかもしれない。こういうのは、早ければ早いほど良い。時計が視界に入る。時刻は21時をさしていた。普段なら、この時間、お風呂に入っているのに。
「桜!」
「菅原、どうしよう…もし、見つからなかったら、どうしようっ…わたしっ、」
「桜、落ち着け!…な?」
警察署では、自分だってあんなに取り乱していたくせに。落ち着きを取り戻した菅原が、私の両肩に手を置いて、私の顔を覗き込む。力強い眼差しの中に、不安そうな顔をした私の顔が写った。
「…っ、」
堪えきれなくなった想いが。この状況に対する不安が。全て雫となって、目から零れ落ちていく。零れても零れても止まらないそれは、今の自分の気持ちと比例していた。目の前に居る菅原に縋り付くと、私の背中に、菅原の腕が回った。抱きしめられた状態で、やさしく背中を撫でられる。
「大丈夫、大丈夫だから」
根拠のない言葉。普段なら、その言葉を聞くと落ち着けるのに。
「どうしようっ…わたしのせいでっ、どうしようっ」
「桜だけのせいじゃないべ」
「すがわらっ、すがわら…」
「うん。俺は此処にいる」
次第に雫は枯れていき、何も零れ落ちなくなった。びしょびしょになった菅原の胸元も乾いていく。それでも、嗚咽は止まらない。ずっと身体を震わせて、何も出来ない自分の滑稽さが、更に私自身を締め付ける。
「桜」
ただ、ひたすら菅原に名前を呼ばれた。どれくらいそうしていたか分からない。そんなとき、流れ続ける不穏な空気を切り裂くように、スマホが振動した。
「「…!」」
上手くスマホが握れないで居ると、その手のひらの上に菅原の手が重なる。画面をタップして、なんとかパスワードを打った。着信相手は、叔父だった。
『……桜?』
泣きすぎたせいで、声が掠れて音にならない。そんな私を見かねた菅原が、私の手からスマホを奪い取る。
「もしもし?私、楓さんの担任の菅原と申します。桜さんが、憔悴しきっているので、代わりに応答させて頂きました」
背中に回ったままでいた片腕に、力が入ったのが分かった。
「はい、はい…え?わ、かりました。あの、桜の方には俺から伝えますので、警察の方に連絡を頼んで良いですか」
俯いたまま、顔が上げられないで居る私を、更にキツく抱き寄せる。どくんどくんと波打つ鼓動が耳に響いて、電話先の叔父の声だけを遮った。
「すがわら?」
なんだか怖くなって、菅原の名前を呼んだ。掠れた声も、ちゃんと拾ってくれた菅原が、私の頭をやさしく撫でる。そうして、叔父と何やら話し込んで電話を切った後、菅原はソファーがある方へ私の腕を引いた。ドサリ、とソファーに腰掛けさせられて菅原を見つめる。「冷蔵庫開けるなー?」そう言って、お茶を入れてくれて、手渡された。数口含むと乾燥した喉が潤っていく。
「桜、落ち着いて聞いて?」
「……ん」
コトリ、とテーブルの上にコップを置いた。
「楓さん、見つかった」
「!」
「見つかったんだけど、今日は帰れそうにない」
「?ど、して?」
やっぱり私が何かしてしまったのだろうか?震える私と目線を合わせた菅原が、諭すように言葉を続けていく。
「桜が何かしたわけじゃないよ。ただ、楓さんは今、大阪に居る」
「おおさか?なんで、どうやって、どうして、」
「うん…」
どうして、そんな遠くまで?お金はどうしたのだろうか?それよりも、なんのために?たくさんの疑問が湧いてくる。菅原は、私が事態を飲み込んでいくのを見計らいながら、答えを教えてくれる。
「お金は多分、お年玉を使ったんだと思うって」
「……!」
「新幹線に乗って行ったらしいよ」
「どうして、」
「うん」
「なんで?」
「実はな…、」
そして、ようやく菅原から伝えられた事実に、目を見開いた。考えもしなかったからだ。それと同時に沸き起こる感情の波が、私を闇の中へと誘っていく。呼吸をするのも忘れて、まるで時が止まったかのように硬直した。次第に朦朧とする意識の中、菅原の唇が、労るように私の唇を撫でる。そして、熱い吐息が口内に侵入してきた。
「んっ……息、して桜」
合わなくなっていた焦点が、定まって、菅原の顔が私の視界に広がっていく。両手が頬を包み込んで、再度やさしく名前を呼ばれた。
「桜、スーハーって。俺に合わせて」
大きく開かれた唇から、息を吸い込む音が聞こえてきて。その後に、ゆっくり吐き出された息が、私の首元辺りを靡いていく。熱を孕んだそれが、冷たくなった身体を通り過ぎた。ゆっくりと菅原に導かれる行為を繰り返して、なんとか落ち着きを取り戻した頃、菅原の名前を呼んだ。
「私、なにか間違えたかな…」
「………」
「ちゃんと、話したんだよ。話した方が良いよって菅原が背中を押してくれたから。向き合わなきゃいけないって思ったんだよ」
「うん。知ってる」
「でも、会わないって。会いたくないって、そう言ったんだよっ」
「うん」
「だから、私、それで良いんだって思ってたのに」
「うん」
静寂な空間に相応しいくらいの小さな私の声音から放たれて、悲しく漏れゆく想い。それとは正反対の大きな相鎚が、一際目立って響く。それはまるで、零れ落ちる哀しみを余すことなく救おうとしているかのようだった。
「戻ってきたら、ちゃんと話を聞こう。大丈夫。俺もついてるし、桜がやってきたことは間違いなんかじゃないよ」
__楓さん、大阪に居る実のお父さんに会いに行ったみたいなんだ。
20210227