ヴーヴーとマナーモードにしていたスマホが振動する。迷わずタップして電話に出た。
「…もしもし、」
『おう、…今、大丈夫か?』
「はじめくん」
岩泉一くん。中学の時の先輩で、私の母親の妹の長男。昔から何かあると連絡をくれて、相談に乗ってくれる。兄弟のいない私にとっては兄のような存在だ。
『コンクールの件、聞いた』
「うん……ありがとう、心配してくれてるんだよね」
『無理してねぇか?』
「無理はしてないよ。ただ、まだ戸惑ってる…」
今思えば、思い通りの演奏が出来なかった。
"演奏前に言われた言葉を引きづっているのだと思う。"
『菫?』
『なになに岩ちゃん、誰と電話してるのー?』
電話の向こうから第三者の声が流れてきた。この声は、多分、
「徹くんも一緒にいるの?」
『あっ、もしかして菫ちゃん?』
及川徹。一くんの親友でチームメイトだった人だ。いや、まだチームメイトと言った方が良いだろうか?でも、もう引退しているからな…なんて思っていると、明るい声が鼓膜を刺激してくる。
『菫ちゃん、元気ー?彼氏と上手くやってる?』
「あ、うん…」
続いて、もう1つの私の悩みの種である"彼氏"というワードが耳に入ってきた。なんとか返事を返したものの、それだけで、なんとなく私が何か抱え込んでいると気づいてしまうのだから、及川徹というのは恐ろしい人物である。
『菫ちゃんのことだから、上手に甘えられないーとか思ってるんじゃない?落ち込んでるときに、従兄になんか電話しないで彼氏に慰めてもらいなよ』
その言葉は、ざくっと私の胸を突き刺したのだった。と言うか、かけてきたのは一くんの方なのだけど。
私と彼氏・白布賢二郎が"お試し"で付き合っていると言うことを知っているのは、少なからず私の周りには居ない。では、賢二郎の周りはどうだろう。賢二郎は、少しとっつきにくいところがあって、友好関係はそんなに広くない。自然とバレー部の人とよく一緒にいるところは見かけるけれど、共通で仲が良いのは同じくスタメンである川西太一くんくらいだろうか。
『悪ィな、及川がうるさくて』
「ううん、大丈夫。元気でたよ。…ありがとう、はじめくん」
『おう…無理すんなよ』
プツリ、と電話が切れる。何を話したか曖昧なくらい、私の頭は落ち着きがなかった。結局、今回は弱音を吐くことすら出来なかった。その後、再びスマホが震える。連絡をくれたのは、お試し彼氏こと賢二郎だ。クリスマスの予定を聞かれたので、今のところ予定はないと伝える。すると、賢二郎の部活終わりに何処か出かけたいから空けて置いてというメッセージが返ってきたので、更に私は頭を抱えることになった。
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翌日も学校に行って、友人達と他愛もない会話をする。それは賢二郎も一緒で。ただ1つ違うのは、みんな音楽の話題を避けてくれているように感じた。
「それでは、全国ピアノコンクール銀賞に輝いた最上さんに、演奏を披露していただきましょう」
本日は、部活動の表彰式がある日でもあり、私は吹奏楽部の新部長になったので、それの活動報告を行った。それから習い事で出たピアノコンクールの表彰も合わせて行われた。ありがたいことに校長先生が、1度生で私の演奏を聴いてみたいと言ってくださっていたのもあり、表彰式の後、私のピアノ生演奏の場が設けられたのだ。
「それでは、まず、課題曲から。課題曲はピアノ協奏曲ロ短調、アレグロ・アパッショナートです」
吹奏楽部の顧問が、課題曲を紹介してくれて、私はピアノの横に立ちお辞儀をする。パチパチパチと激励の拍手が贈られてきて、それを聞きながら、着席した。深呼吸を繰り返して、鍵盤にそっと手を置く。その途端、拍手が鳴りやんだ。
♪〜
アップテンポなこの曲は、ミスタッチをすることも多く繊細だ。鍵盤を弾きながら、もう既に何度かミスタッチをしてしまっている。それに気づくのは、音楽をやっている人たちくらいだろう。それくらいのミスだけれど、私にとっては、凄く不快だ。音が重い。上手く旋律が乗らない。逃げてしまいたい。こんなに、ピアノが苦しいと思ったことはない。
それでも、なんとか弾き終えて、ほっと一息吐く。問題は、
「素晴らしい演奏をありがとうございます。続いて、自由曲はショパンのノクターン」
夜想曲という意味を持つこの曲を、どうして自由曲に選んだのだろうか。今更、後悔しても遅い。スローテンポなこの曲は、タッチで与える印象が変わる。ミスタッチはあんまりしないけれど、表現技巧の面での難易度は高いのではないか、と思われる。
♪〜♪♪♪〜
小さい頃、この曲を子守歌にしてくれていたらしい。好きか嫌いかと言えば、私は、この曲が好きだ。安らぎを与える曲と言っても過言ではない曲。
"つまらないわ"
「………、…」
"あなたの音楽には、感情がないの"
「!」
パタッ、と手が止まってしまった。ぼう然と鍵盤を眺める。止まってしまった手に視線を向けると、両手が震えていた。
「最上さん?どうしたの?」
私の異変に気づいた顧問が、私の元に寄ってくる。その途端、全校生徒のざわめきが響き渡った。
「どうしたんだろ??すごくキレイだったのに…」
はっきりと聞こえてきた、その声。なんてことをしてしまったんだろうと、自分の失敗に視界が真っ暗になった。お客さんを前にして演奏家が演奏を止めてしまうなんて、あってはならないことだ。後悔の念に苛まれる。ようやく、口に出来たのは、
「…先生、私、弾けません」
情けない、絶望の言葉だった。
20201124
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