名前を一人の女性として意識し始めてから、今まで通りに接することが難しいと感じた。 手を繋いだところから伝わる名前の体温が、鼓動が脈を狂わせる。 名前の髪から漂う甘い香りにクラクラしそうになったこともあった。同じシャンプーや石鹸を使っているはずなのに、どうして自分とは違う匂いがするのだろうか。 柔らかく小さなその身体を抱きしめたい衝動に駆られる。色鮮やかな唇に触れたいと思う。 あどけない寝顔を覗き込んでは、触れたいという欲望を抑えるのに必死だった。 寝間着姿からちらりと除く白い素肌の、見えない部分を想像したこともあった。 ジンの部屋で寝てしまった名前が目覚めて自室に戻った後、シーツに残った残り香に悩まされたこともあった。 そういった目で名前を見ている自分がいることに気がついたときに、ひどい嫌悪感を覚えた。 純粋に、家族として好意を抱いてくれている名前を汚すような真似をしているように思えたから。 それでも、悲しいことに身体は反応してしまうもので、名前のことを考えながら吐精することは少なくなかった。 こんな自分を、名前に知られたくは無かった。 家族という仮面を必死に被って、気づかれないように必死だった。 だけど、無意識のうちに身体が名前に触れることを怖がっていたのだろう。 結果として小さな綻びができてしまい、名前に変な勘違いをさせてしまった。 いつも通りに、部屋に遊びに来た名前はどこか静かだった。 眉を寄せ、眉間に皺ができているその表情は暗く、しばらくしてからクッションに顔を埋めて唸っていた。 どこか体調でも悪いのかと思い、声を掛けたら。 「ジンくんが、ジンくんが悪いんだよ!」 顔を上げた名前は、ひどく歪んだ、今にも泣き出しそうな表情だった。 「私のこと、嫌いなんでしょ?傍にいるの、本当は嫌なんじゃないの?」 「名前、いきなり何を…」 「だって、ここのところ変に私を避けてるし…、嫌なら突き放してくれていいんだよ、無理しなくていいの、むしろ変に優しくしないでよ…」 歯を必死に食いしばって、泣くのを堪えている姿が弱々しく見える。 こんな表情をさせてしまったのは、他の誰でも無く、自分だ。 悲しませたくないから、泣いて欲しくないから、だから名前の隣に居ようと決めたのに。 それなのに、なんて愚かなのだろう。 「…違う!」 嫌いになんて、なれるわけなかった。 幼い頃、海道の名に恥じない為の英才教育で息をするのも苦しかったあの頃、いつも隣で笑ってくれて、力をくれたとても大事な存在。誰よりも大切で、愛しくて、守りたくて、そんな名前を嫌うだなんて、それだけはおじい様の命令だったとしても無理な話だ。 「違うんだ…、確かに、名前のことを変に避けていた。これは事実だ。でも、決して名前のことを嫌いになったとか、そういう訳ではない…むしろ、逆だ」 先程までとは打って変わって、きょとん、とした表情を浮かべる名前はおそらく何もわかっていないだろう。 どうすれば名前に伝わるのだろうか。この気持ちが。 ゆっくりと、言葉を少しずつ選びながら話す。 「…僕は、名前のことが好きだ」 「わ、私も…、ジンくんのこと、好きだよ」 「名前の好きと、僕の好きは違う」 「好きって事実に、違うも何もあるの?」 「僕は、名前のことをひとりの女性として…、恋愛対象として、好きなんだ」 瞬きを何回か繰り返し、今言った言葉を飲み込もうとしているのがわかった。 けれども頭には疑問符が浮かんでいる。 無理もないだろう。名前は研究漬けで、同年代の子どもはジンくらいしか話し相手が居なかった。 神谷重工の社長の息子も歳は近かったから話す機会はあったけれど、女性と話すことは全くと言っていい程無い。 食べることや寝ることも忘れてLBXに夢中になるような性格なのだから、そういったことに無頓着でもおかしくない。 「よく…わからないよ…、好きって、一緒に居たいとか、そういうことなんじゃないの?」 「…確かめてみようか」 「どうやって?」 名前の質問に、敢えて返事はせずに一歩、また一歩と距離を縮める。 そっと、名前頬に手を添える。そういえば、自分から名前に触れたのは久しぶりかもしれない。 柔らかなその頬を包み込むように、そして自分の唇を名前のそれに近づけて。 息を吸い込めば鼻腔に甘い香りが充満して、心臓が早鐘を打った。 「やだっ…!」 あともう少しで、唇同士が触れ合う、というところで拒絶の言葉が入る。 結構強めの力で、胸を押された。予想はしていたけれど、やはり。名前は家族以上の愛情は持ち合わせていないのだ。 瞳にはすっかり怯えた色が映しだされ、いつも以上に姿が小さく見える。 そっと、頭に手を乗せると一瞬肩がびくりと動いた。けれど撫でているうちに肩の力は抜けていき、固かった表情が少しずつ柔らかくなっていくのが目に見える。 「怖がらせて、すまなかった」 「………」 「やっぱり、名前の好き、と僕の好きは違っただろう?」 「…うん」 「今までよりも、もっと名前に触れたいと思う。でも、それはきっと名前が望まないことだから」 名前が望むのであれば、手だって繋ぐし、一緒の布団で寝たりもしよう。 でも、自分の欲望を名前に押し付けることは絶対にしてはいけないと思った。 キスをしようとしただけで、あそこまで怖がるのだから。 「完全に、今まで通り、家族ではいられないと思う。僕は、名前が好きだから」 「私も…ジンくんと同じになったら、そうしたらジンくんと一緒にいられる?」 「名前」 「…はい」 「無理は、しなくていい。これは僕が勝手に抱いた感情なんだから。変わるとしても、ゆっくりでいい」 自分の隣に、それでも居たいと言ってくれる名前の言葉がただ嬉しかった。 家族愛だったとしても、恋情に発展することは無くても。 名前が名前のまま、隣に居てくれる。それ以上の幸せは無いだろう。 でもきっと、自分はそんな名前を汚れた目で見てしまう。そんな自分が、嫌だった。 20110920 | |