夢を見ていた。 何故夢と自覚できたのかはよくわからないけれど、幼い自分がひたすら泣きじゃくっていて、それを今の自分が見つめている構図は夢である以外に想像できない。 もう思い出したくなかった、9年前のあの頃。トキオブリッジが崩落した、あの日。 事故に巻き込まれずに助かった子どもは、ジンくんだけだった。事故に巻き込まれ意識不明、という子どもは名前や他にも何人かはいたのだ。 そういった子どもたちの入院の手配を義光さまはしてくれた。 それ以外にも、義光さまには感謝してもしきれないことがある。 「君が苗字博士のお子さんかい?」 「苗字博士の研究論文は本当に素晴らしかったよ」 「博士の論文データがどこにあるのかは知らないかな?」 「何もお父さんやお母さんから聞いてない?重要なデータの場所とか」 どこからどうやって知ったのか知らないけれど、名前が目覚めたことを知ると面識の無い大人たちがこぞって病室に押し寄せてきた。 言っている意味がよくわからなかったし、名前を見つめるその目はどこか恐ろしくて。 誰も、「名前」の心配ではなくて。お父さんの、大事な論文や研究の話ばかりで。 その大人たちの言葉で、余計にお父さんとお母さんはもう居ないのだと痛感させられて、悲しみがうずを巻いてどんどん黒いものが心の奥底に積もっていくのを感じた。 知らない。もう嫌だ。帰って。失せて。構わないで。 黒いものが降り積もる度に、吐き気や気持ち悪さも増してきて。どうして、どうしてこんなことになったのか。 唇を強く噛み締めた時だった。 「…お引き取り願おうか」 落ちついた、低い声が病室に響き渡る。 知らない大人たちは、その声に反応し慌てたように散り散りになった。 声の持ち主である年老いた男性は、テレビで何回か見たことがあった。この人は、何をしに来たのだろうか。 問い詰められた所為で、大人の人に若干恐怖心を抱き始めていたから、手が少し震える。また、お父さんの論文について聞かれるのだろうか。 「…知らない、です」 聞かれる前に答えてしまおう、と乾ききった口内を無理矢理開き言葉を発する。 下を俯いているから視界にはシーツしか映らない。目の前の人がいったいどんな表情をしているのかはわからない。 「知らないです、知らない、知らないの、わたし何も、本当に、わからないの、知らない…の」 「もう良いんだ」 涙がにじみ始めて、後半はちゃんと言葉にできていたかどうかはわからない。知らない、以外にどう言えばいいのかが頭に浮かばない。 その途中で、ふわりと、頭に温かいものが触れるのを感じた。 そっと、頭を撫でられている。お父さんがよくしてくれたことを思い出す。 「辛い思いをしたね…もう、泣かなくて良いのだよ」 「…うぇ、うっく」 泣かなくていい、と言われても、涙が止まることは無かった。 悲しくて涙がでるわけじゃなくて、嬉しかったのだ。知らない大人たちに囲まれて、怖かったところを助けてくれた。弱り切っていた心に、それはとても深く響いた。 「…苗字くんとは、何度か話をさせてもらったよ」 「そう、なんですか」 「あぁ、惜しい人を亡くした…」 数日の間、義光さまは何度か名前の病室へ足を運んでくれた。 体調はどうだ、とか、お父さんの話とか。知らない大人たちにお父さんの話をするのはとても嫌だったけれど、義光さま相手だと不思議と自然に話せた。 義光さまは、優しくて。暖かくて。義光さまと過ごす間だけは、寂しい思いも、痛む傷も、全て忘れられるような、そんな気がしたのだ。 それからしばらくして。 義光さまは、家族にならないかと提案をしてくれた。 けれども、苗字の姓を捨てることはできなかった。 お父さんとお母さんのことを忘れたくなかった、というのもある。更に言うと、病室にやってきた知らない大人たちに、自分の存在を認めて欲しかったのかもしれない。 「苗字博士の娘」ではなく。「苗字名前」として。 研究者として立派になれば、苗字名前という個体そのものが認められるのではないか。 所詮4歳児の浅はかな考えだった。それでも義光さまは笑わずに、真剣に聞いてくれて、更には援助までしてくれると約束してくれた。 それが本当に嬉しくて、義光さまに恩返しを必ずしようと思った。 義光さまの為に、義光さまの為に。 そう、義光さまは居場所をくれたのだ。 義光さまがいるから、今の名前がある。 LBXの研究を好きなようにできるし、海道邸でお世話になることができる。 それに、義光さまは約束してくれた。 「みんなが笑顔で、幸せな世界を創るために私は活動している」 その言葉を信じて、義光さまから依頼があればその分野の研究をした。 研究のためには費用を惜しまず与えてくださったから、必死に頑張った。最初はわからないことだらけだったけど、でも義光さまのためだから。 お父さんの書斎にあった研究書や、義光さまが参考になるだろうとくれた論文、様々なものを見て、吸収して、飲み込んで。 頑張ってきたけれど、でも。 決勝の、灰原ユウヤのことを思い出す。 彼に見覚えがあって当然だ。同じ事故が原因で、一緒に入院していたのだから。 きっと、里親が見つかって引き取られたのだとばかり思い込んでいた。けれど。 おそらく、彼は神谷重工の施設に連行されて、被験体となった。そして、あんな目に遭ってしまった。 一歩間違えれば、名前もああなっていたかもしれないのだ。 苗字博士の娘だから。だから、名前はああならずに済んだのかもしれない。 じわり、じわりと心の中に黒い灰が降り積もる。 考えたく無かった。考え始めてしまえば、それはきっと名前自身の居場所も危うくなってしまうから。 それでも積もり始めた黒い灰は消えることはなく、容量を増していく。 それは段々と侵食を始めて、黒々としたおおきなかたまりとなる。 義光さまの理想の世界は、暖かくて幸せに満ちあふれたものだと信じているけれど。 そのための手段は、過程は、いったいどんなものなのだろうか。 20110818 | |