遠くでセミの鳴く声が聞こえる。陽射しがジリジリと肌を焦がす感覚に、あぁ、夏なのだなと改めて実感をする。 今日から夏休みだ。鞄の中には担任から手渡された夏休みの宿題たちがぎっしり詰まってはいるが、それでも楽しみなことに変わりはない。 ひと月以上はある休暇をどのように過ごそうか頭の中でいろいろ考えつつ、玄関のドアを開ける。 ただいま、と出しかけた声は引っ込んでしまった。なぜなら、ドアのその先に、女の子が正座をしてちょこんと座っていたからだ。 思わずドアをしめて、表札を確認する。泉政実、佳江、光子郎。間違いない。ここは自分の家だ。 じゃぁ、今いた女の子は一体誰なのか。夏の暑さが見せた幻覚だろうか。おそるおそるもう一度ドアを開けると、やっぱりそこにはちょこんと、神妙な顔をした女の子が正座していた。 「……」 短いような長いような沈黙が続く。どうしたものか、と首を傾げると、女の子が小さな声で何かをつぶやいた。 小さくてか細い声だったので思わず、え、と聞き返すと、今度ははっきりと光子郎の耳にも届くくらいの声量で、 「おかえりなさい」 と目の前の少女はつぶやいた。 「た…ただいま」 *** 状況がよく飲み込めないまま少女の後を付いていくようにリビングへと向かうと、テーブルの上に1枚の置き手紙が置いてあった。 それは母親からの手紙で、友人が仕事の都合でまる1日家を空けることになり、娘1人で留守番をさせるのは不安だと言っていたので我が家で預かることになったとのこと。 そして夕飯の買い物に行ってくるのでその間その子の相手をよろしく、と書かれていた。 結局自分が帰って来るまでこの子は1人だったのだからあまり意味が無いのでは、という思考が一瞬頭をよぎったが、数時間と1日だったら数時間の方がまだマシということなのだろう。 さてどうしたものか、と少女の方に目をやると、ぱちりと目があった。何度か瞬きをした後、居心地が悪そうにソファーの上で体育座りの体制をとっていた。 「えーと、その…」 話しかけようにも、何をどうしたらいいものやら。外見は小学校中学年、といったところだろうか。 最近よく話す後輩たちの中での最年少である伊織と同じくらいに見えるが、年下でしかも異性ときたものだから、話題がない。 戸惑っている空気をそれなりに感じたのか、ぎこちなくもあるが少女は自己紹介を始めた。 「…苗字名前、お台場小学校4年生です。よろしくお願いします」 「あ、泉光子郎です…、お台場中学校1年です。こちらこそ、よろしくお願いします」 会話が続かない。相手をしろ、と言われても自分ができることなんてパソコン関連くらいなもので。 とりあえず鞄からノートパソコンを取り出し、起動する。会話に役立つトピックとかコラムとか、検索すれば引っかかるのではないかと淡い期待を抱きながら。 少し低めの起動音を聞きながら画面に目をやると、画面の脇からちらりと名前の頭がみえた。 「名前さん…?」 「これ、ぱそこん?」 「え、あぁ…はい」 「ぱそこん使えるんだ!光子郎おにーちゃんすごいですね!」 顔をくしゃりとさせながら何気なく名前が言った「おにーちゃん」という単語が、なんだかくすぐったく感じた。 兄弟はいないし、後輩からはさん付けか先輩と言われるだけだったから、「兄」という響きはとても新鮮で。 自分の中の「兄」というイメージは、3年前に一緒に冒険をした仲間の数人で固定されていた。 名前の瞳に映る自分は、「兄」らしく映っているのだろうか。 「わたしのおとーさんね、ぱそこん全然だめなの。いっつもよくわからないなーって言ってるんです」 「ある程度成長してからパソコンを始めると難しい、という話をよく聞きますからね」 「光子郎おにーちゃんは、ぱそこん得意?」 「得意というか、まぁその…たぶん、得意の部類に入る方かなとは思いますけど」 「ほんと!?じゃあね、あのね、教えてほしい!」 どうやら名前はパソコンに興味があるようで、あれは何、これは何、といろいろ聞いてきた。 ペイントソフトで多少歪なネコの絵を書いたり、文章ソフトで自分の名前や住所を打ち込んだりと楽しそうにパソコンを弄っていく。 だいぶ時間が経った頃、冷房で乾燥してきた喉を潤すために冷蔵庫へ飲み物を取りに席を立った。 名前の分もコップを持ち戻ると、パソコンの画面から光子郎へと視線を移した名前が照れくさそうに、あのね、と切り出す。 「ホントは、怖かったんです。」 名前のクラスにはやんちゃが過ぎるというか、元気が良すぎる男子が多いらしい。 世の中の男子はみんなそんなものなのだと思っていた名前は、お世話になる家の人もクラスの男子みたいだったら嫌だな、怖いなと不安だったそうだ。 それで玄関に正座をしていた時、複雑そうな表情だったのだろう。 「でも、光子郎おにーちゃんは優しいし格好いいし、会えてよかった!」 「ど、どうも…」 優しい、や格好いいなんて言葉は言われ慣れてないので、ほんのすこし頬に熱が集まった。 いや、相手は小学生なのだ。きっと純粋に思ったことを口にしただけなのだ。落ち着け、落ち着け。 「ね、光子郎おにーちゃん」 おとーさんとおかーさんの仕事がなくても、また遊びに来ていい? 笑顔で告げられたその言語に、考える間もなく頷いてしまったのは、たぶん自分もどこかで名前といる空間の居心地の良さに気がついていたからなのだろう。 今年の夏休みは楽しくなりそうだ。 20110524 泉光子郎(djmn) | |