仰げば尊し、旅立ちの日に。半年ほど前に合唱祭で歌われた曲が体育館に響き渡る。 早咲きの桜はもう咲き始めて、吹き付ける風もどこか生暖かい。陽射しも柔らかくて、春がもうそこまで近付いているのだなぁと実感する。 「続きまして、別れの言葉」 司会の先生の進行は淡々と進んでいく。名前を呼ばれた代表生徒が立ち上がり、楽しかった3年間、素晴らしい先生や仲間と出会えてうんぬんかんぬんとありきたりな答辞を読む。 来年は自分たちが送り出される側になるのか、とあくびを噛み殺しながらぼんやりとその様子を眺めていた。 特別に親しい先輩が居たわけでもなく、ただの学校行事という認識しかしていなかったのだ。 「いやー、しかしすごいなぁ」 式が終了し、校庭に在校生が花道を作り卒業生を見送るのが伝統だ。 それが終わると、慕われていた生徒には後輩が群がる。人気のある男子生徒はボタンの争奪戦になる。 友人が懸命にその波にもまれるのを遠目に見守りながら、思ったことをそのまま口に出した。 「苗字は参加しないのか?」 独り言のつもりで呟いた言葉に反応があるとは予想していなかったので、思わず振り返る。 そこに立っていたのはクラスメイトである半田だった。 「うーん、あの騒ぎの中に混ざれるほどの元気はないかな」 「確かに、戦場みたいだよな」 最初は、あの中に交ざりたかった。密かに憧れていた先輩の、袖口のボタンでもいいから貰えたらよかった。 だが憧れの先輩は他の生徒にも人気があり、ワイシャツのボタンすら無くなりかけている。 それを見た瞬間に、興ざめしてしまったのかもしれない。 ただの憧れと恋愛感情は似て非なるものだ。 「…あのさ」 「ん?」 半田がまだその場を去っていなかったことに少しばかり驚いた。 先ほどのやりとりで会話は終了したものだと、勝手に思い込んでいたのだが、半田は違うようだ。 「来年の話になるんだけどさ」 「何?」 「…もし、苗字がよかったら」 よかったら、の続きの言葉がなかなか聞こえてこない。 口を開いてはいるのだが、言おうかどうしようか迷っているようだ。 そんな調子だから中途半田、なんてあだ名をつけられてしまうのだろう。彼のそんなところが嫌いではないが。 すう、と息を吸い込む音が聞こえた。 「お、俺の第二ボタンもらってくれないか!」 「………はい?」 予想外すぎた言葉に思考が停止しかけた。 女子が男子に第二ボタンが欲しいと頼むのはよくあることだ。現に数メートル先でもそんなやりとりが繰り広げられている。 だが、男子が女子に貰ってくれと頼むのは、あまりないことのような気がする。 いや、それ以前に第二ボタンを貰ってほしいということは、…つまりそういうことで。 呆気にとられた表情のまま固まる姿に半田は「いやっ別に嫌ならいいんだけど、そのあの、え、えっと」と動揺の色を隠せないようだった。 何だかその様子がおかしくて、笑ってしまう。半田のことだから、大した意味はないのかもしれない。 卒業式当日に、自分だけ第二ボタンがついたままだったら格好悪いとか。だから適当な女子に貰ってもらおうとしてるのかもしれない。 「いいよ」 「無理にとは言わないんだ…って、え?」 「嫌じゃないし、無理でもないから。半田の第二ボタン、貰う」 今度は半田の思考が停止しかけたようで、暫く静かになった。 そのうちに身体を震わせ、眼をきらきらと輝かせながら「本当に!?」と何度も確認をしてくる。 「すっげー嬉しい!ありがとな、苗字!!」 まぶしいくらいの笑顔を浮かべて、手をぶんぶんと振りながら半田はその場を離れていった。 そんなに嬉しかったのだろうか。男子は男子で色々大変なのだろうなと想像力を働かせる。 そういえば教室にカバンを取りに行かなくては、と半田と同じく移動をしようと振り返った。 「半田も馬鹿だよねぇ」 「わっ」 そこにはクラスメイトその2、こと松野の姿があった。 気配を全く感じなかったのは気のせいだろうか。 そして松野の言葉に若干の違和感を覚え、思わず聞き返してしまった。 「馬鹿って、どういうこと?」 その言葉に松野はくすくすと笑いを漏らし、気付かないの、と言いたげな眼で見つめてくる。 松野のその態度があまり好ましく思えなかったので、答えを待たずに教室へ向かおうとした。 「好きな子に対して、遠回しにしか気持ちを伝えられないところだよ」 思わず足を止めてしまう。 もしかして、さっきの一連のやりとりは。 自然と、頬が熱くなるのを感じた。 いつの間にか松野は顔を覗き込むように立っていて、にやりと笑みを浮かべている。 「つまりはそういうこと」 校庭の騒ぎはいつの間にか止んでいて、桜の花びらがひらひらと漂うだけだった。 20100322 | |