目を閉じれば浮かんでくるのは、真っ赤な光景。赤よりかは朱に、いや緋に近いだろうか。耳に入ってきたであろう音声はもう殆ど思い出すことはできないのに、鮮やかなその色はいつまで経っても忘れることができない。
その真ん中に在る父の亡骸だって、いつまで経ってもはっきりと、鮮明な記録として浮かび上がる。
忘れることができたらどんなに救われただろう。
でもこれは罰なのだ。幸せの対価なのだ。だから仕方のない事。
人間が人間として存在し続けていられるのは、人間が過去の記憶の集合体として存在しているから。
その記憶を捻じ曲げてしまったことへの罪を、受け続けなければならない。捻じ曲げて生き続ける限り。

「いってきまーす」

洗濯物を干しにベランダへ向かった母の背中に声をかければ、気をつけてねーと気の抜けた声が返ってきた。
トントン、とつま先を2回地面にぶつけてから足を進める。おまじないのようなものだ。これを教えてくれたのは他の誰でもない父その人だけれど、覚えているのはもう名前しかいない。
だからこれは、忘れないための儀式のようなものでもある。確かにあの人は存在したのだ。その記憶が消えぬように、反芻するように、毎朝繰り返す。

「ひどい顔だな」
「…秀ちゃん、おはよ」

数メートル進んだ先には電信柱にもたれかかるようにしてひとりの男が立っていた。三輪秀次。家が近所の、一言で表してしまえば幼馴染。
ひどい顔、と言われたけれど、目の下に隈を作っている人に言われたくはないなぁと心の中でそっとつぶやく。本人に直接言えばそれはそれで面倒くさいので言わない。
彼もそれなりに悩むことが最近多いようで、口にはしていないけれどなんとなくわかってしまう。きっと、同じような傷を持っているからこそ、互いに通じ合ってしまうのだろう。

「また見たのか」

何を、と主語ははっきりとは言わない。それでも伝わってしまうくらいには頻繁に起きることだったから。
近界民によって三輪は姉を、名前は父を殺された。ちょうど同じ時に、おそらく同じ奴に。その時の赤黒い光景を今でも夢に見ることが何度となくある。はっきりと鮮明なその様子は、ひどく現実的で、過去といまの境目があやふやになるくらいにはひどかった。
ふと、温もりを感じる。三輪が名前の身体を包み込むように抱き締めていることに、行動から5秒ほどして気がついた。

「泣け」
「…ここ公道だよ」
「顔は見えないだろ」
「秀ちゃんが泣かせたって思われるよ」
「慣れた」
「…ひどいひとだなぁ」
「お前が壊れるよりマシだ」

いつもそうだ。
ほんの些細な変化に気付いてくれて、他人のことなんて普段はそんなに気にかけないのに、名前が潰れてしまう限界の少し前で温もりをくれる。
優しい人なのだ。
そんな優しい人に戦って欲しくなかったけれど、彼が復讐の道を選んだことを止める理由は無かった。その手助けをすることは、彼の力になれることは嬉しいけれど、同じくらいに苦しい。
彼だって色んなものに悩まされて苦しんでいるのに、名前だけいつも彼に助けられている。彼に寄りかかっているだけの自分が情けなくて嫌になる。もっと、強くなれたらいいのに。
彼の胸を濡らしながら、そっと背中にまわした腕に力を込めた。


三輪秀次には幼馴染がひとり居て、家族ぐるみで付き合いのあるひとつ下の女の子──苗字名前とはそれなりの付き合いだった。
いつも自分の姉と姉妹のようにはしゃいで笑う様子は見ていて嫌なものではなかった。笑顔のよく似合う彼女から表情が抜け落ちたのを見たのは、確か彼女の父親の通夜が初めてだった。
近界民による襲撃で多くの人が亡くなったあの時、三輪の姉も、名前の父も命を失った。その時のことは思い出したくもないけれど、制服姿で無表情の名前はとても印象的だったから、葬儀の様子よりもはっきりと頭に残っている。
それから暫くして、名前の母親が病み始めたことも。
苗字夫妻はとても仲が良く、年頃の娘の前でも相思相愛っぷりを見せつけるものだから、名前はよく恥ずかしいからやめてよ、だなんて怒っていた。
そんな人が最愛の夫を失ったらどうなるのか。段々と、じわじわと壊れ始め、次第に名前を攻撃するようになっていった。娘のことも、あんなに愛していた人が。
会う度に生傷が増えていく名前の身体を心配すれば、だいじょぶだから、としか返ってこず、無力なこどもは何もできる手立てがない。
あんなに表情豊かだった名前が泣きも笑いもしないことがひたすらに怖くて、三輪は時々名前を抱き締め、感情を吐き出せば良いと伝えることしかできなかった。それでも彼女の表情が変わることは無かったのだけど。
暫くしてから、パタリと名前の生傷が消えた。母親の症状が落ち着いたのだろうと予想していたが、現実はもう少し歪んだものだったのだ。

「お母さんの記憶、消した」

淡々と呟いた名前の表情はやはりあまり変化せずに、宿題が終わったと告げるかのようなあっさりしたトーンだったものだったから、言葉の意味をすぐに理解できなかった。
──サイドエフェクト。
記憶操作というよりかは、暗示強化と言うのだろうか。ひたすらに暗示を重ねた結果、名前の母親は父親のことを忘れた。いや、死んだことは覚えている。けれど名前が産まれる前に交通事故で亡くなって、もうずっと自分は娘と二人暮らしなのだと、そう認識していた。

「ねぇ、わたし、間違えちゃったかな」

お母さんの思い出も殺しちゃった。
表情を変えることなく掠れた声で呟く彼女は、途方に暮れていた。
人は思い出を、記憶を抱えて生きていくものなのに。母親に笑顔が戻ってきても、大切な記憶は捻じ曲げられたまま。
どうすれば良かったのか、正しい答えなんてどこにも見つからなかった。

「…泣け」
「泣いていいのかな」
「……お前は悪くない」

もう何度繰り返したかわからないけれど、そっと名前を抱き寄せて、背中を撫でてやれば、その内に嗚咽が聞こえてきて、呻くようだったそれは段々と大きく、虚しく響き渡る。
可哀想な子。
同情なのか憐れみなのかはわからない。こいつを泣かせることが出来るのは自分しかいないのだという優越感めいたものもひっそりと存在していることは認めている。
彼女が壊れる前に手を差し伸べて、それを繰り返すうちに自分がいなければダメになってしまえばいいのに。
この感情が何なのかわからないまま、また壊れる直前の彼女を抱き締める。

2014/11/03

ワールドトリガー/三輪秀次



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