いつもの時間よりも数時間程遅く、家路を辿る。 足元は若干ふらついているのはアルコールのせいだろう。 久しぶりに飲んだものだから、身体の中の抗体が仕事をしていない。 かといってそこまでひどく酔ったわけではなく、なんとなく気分がいい。いわゆる、ほろ酔いというやつだ。 カツカツとリズミカルに踵を鳴らして階段を上る。 日付変更線が近いから、きっと1階の人はうるさいと眉を潜めているだろう。 けれどそんなことは麻痺しかけている脳みそでは考えることなどできなかった。 目的地である玄関前まで鼻歌交じりに辿り着いて、カバンの中からキーホルダーにしては少し大きめのマスコットが着けられている鍵を取り出した。 随分前に夢の海へ遊びに行った時に買ってもらったものだ。 裸ではかわいそうだから、と一緒に買った専用の洋服は若干くたびれている。今度洗濯でもしてやるか、とそのクマの頭を撫でながら、まだ鍵を開けていないことに気がついた。 「ただいま〜」 がちゃり、と音を立ててドアを開ける。 1Kで、ロフトがあるその部屋は一人で暮らすには充分な広さだった。 もちろんここに住んでいるのは名前だけなのだから、ただいまと声をかけても返ってくる声は無いはず、だ。 けれど部屋にすでに灯りがついていて、玄関には名前のものではない靴が1足、丁寧に揃えてあれば。 「おかえり…って、随分上機嫌だな」 「カクテルがねー、おいしかったのー。久しぶりだったし」 「そっか」 出迎えてくれたのは半田真一その人で、丁寧にグラスにミネラルウォーターを注いで手渡してくれた。 それをぐいっと一気に飲み干して、空になったグラスは流し台に置いておく。 少し狭いユニットバスへ行けば着替えがすでに用意されていたから、窮屈だったパーティードレスを脱ぎ捨てた。 崩れかけていた化粧も落として、アップにしていた髪も解いて、ついでにシャワーでも浴びたかったけれどアルコールが抜けてからの方がいいだろう。 脱いだままにしていたドレスをハンガーにかけて、皺を伸ばす。明日あたりに近所のクリーニング屋に持っていかなくては。 ようやく一息をついた。TVに向かってコントローラーを握っていた半田の背中に寄りかかる。 いつの間にか持ち込まれていたPS3は元々半田の家にあったものだ。 数カ月前に配属先が変わった半田は、「名前の家からの方が近いんだよな」とたまに泊まりにきていた。 今ではほぼ、住んでいるようなものだけど。洗面台にあるコップには歯ブラシが2本刺さっているし、半田専用のマグカップだって、カレー皿だって用意してある。布団だって。 もちろん合鍵だって持っているから、こうして名前がいない間にも部屋にあがっているのだけど。もう1人のここの住人と言っても、過言ではない。 どうせなら。 どうせなら、もう少し広い部屋を借りて、ちゃんと同棲したいと思うこともあった。 けれど、ずるずると流れるままにここまで来てしまったから。今更、どう切り出せばいいのかわからない。 「どうだった?」 「…んー、ナオミ、すっごいキレイだった。ドレスすっごい似合ってたの」 「料理もうまかった?」 「もちろん。あ、ウェディングケーキが食べられるやつでねー…ファーストバイドもやってたよ」 「何だそれ」 「んーと、ケーキカットのあと新郎新婦がケーキ食べさせ合うの」 「初めて聞いたなー…」 「欧米の方?では、なんかよくやるみたい。ナオミ、すっごい大きい一口にしてた」 「それは大変そうだ」 背中合わせで、お互いの顔は見えない。 半田は今、どんな表情を浮かべているのだろうか。 高校の同級生の結婚式に出るのは、これが初めてではなかった。 仲良しグループのうち2人はもう既婚だ。大学の同期で集まっても、結婚秒読みな子は珍しくない。 つい最近彼氏と別れた子はこれから婚活に気合を入れる、と語っていたのを思い出す。 もう、結婚の話が出てもおかしくない年齢なのだ。 別に焦っているわけではない。ただお互い、なんとなく結婚するならこの人だろうなと思いつつ付き合いを続けている。 半田と出会ったのは中学生の頃だった。付き合い始めたのは高校の時だけれど、もう何年越しだろうか。 でも、切り出し方がわからない。そもそもこういうことは、やはり男性の方からなのではないか。 アルコールはだいぶ抜けてきて、ぼんやりしていた思考がくっきりとしてくる。 部屋の中は静かで、ガチャガチャというコントローラーを連打する乾いた音が少しだけ響く。 背中越しに伝わる半田の体温が心地良い。段々眠気が強くなるのを感じた。 「名前」 「…んー?」 「もう、寝るか?」 「…まだ、起きてる」 「そっか」 意識はもう半分くらい、どこかに飛んでいた。 半田はわかっているのかわかっていないのか、ちょっとごめんなとコントローラーを手放して立ち上がる。 完全に半田の背中に体重を預けていた名前の身体はバランスを失って床に倒れそうになったところを、すかさずクッションで支えた。 ぼんやりとカバンをごそごそ漁る半田の後ろ姿を眺めながら、何度か瞬きを繰り返す。 あの頃、出会った頃はまだ発達途中の中学生だったからまだ線が細かった身体も、今ではすっかりたくましくなった。 プロで活躍している選手たちに比べたらまだどこか頼りないかもしれないけれど、それでも地域のサッカークラブの監督として身体は動かしているから、休日部屋に引きこもってばかりの輩に比べたら筋肉はついている方だろう。 次の試合はいつだっただろうか。記憶の引き出しを開けたり閉めたりしているうちに、半田はお目当てのものを見つけたらしく、こちらに顔を向けた。 「…これ、やるよ」 「なにこれ」 「いいから、開けてみろって」 にゅっと目の前に突き出されたのは、わりと有名なブランドの包み紙にリボンがかけてある箱だった。 言われるがままに、しゅるりとリボンを解いて、紙が破けないようにそっと開く。 出てきたのは正方形の箱で、表面はベルベット地でさわり心地がよかった。 ちらりと半田の方へ視線をやれば、こくりと頷くだけで何も言わない。そのまま開けろということなのだろう。 ちょうつがいの付いていない方を顔の正面に向けて、そっと上方向に開いてやれば。 箱の中身は、指輪だった。S字デザインの、サイドストーン。中央のダイヤモンドはもちろん、左右に添えられたピンクダイヤモンドはとてもきらきらと輝いていた。 「え、あの、これって」 ぱくぱくと、口を金魚のように動かす。 目の前のそれは、誰がどう見ても、エンゲージリング以外の何にも見えなかった。 半田は困ったような、すこしはにかんだような顔で笑い、箱から指輪をそっと取り出す。 呆然としたままの名前の左手を取り、ごく自然に、薬指にするりとそれを通した。 いつサイズを調べたのだろうか。違和感なく、まるで最初からそこに存在していたかのように指輪は光る。 「いつ言おうか、ってずっと迷ってたんだ」 「……えっと」 「情けないけど、円堂とか染岡にすっげー相談しまくってさ」 「そうなんだ…」 「…タイミングとか、雰囲気とか、やっぱどうしたらいいかわかんなくて、こんなんになったけど」 「…うん」 「俺と、…結婚してください」 答えはもちろん、決まっていた。 20120606 | |