特に用事なんて無かった。
敢えて理由付けするのであれば、足が勝手に、とでも言えばいいのだろうか。
普段はめったに寄らない図書室に居るのは、本当に気が向いたからだった。
中に入ってみれば意外と広いその空間に、どこか居心地の悪さを感じつつ周囲に視線をやる。
様々なジャンルの本が並ぶ中で目に留まったのは、やはり、サッカーの本で。
そっと目についた背表紙に手をかけ、取り出す。
写真集か何かだったようで、試合中の選手の様子がフルカラーで載っていた。
流れるような速さで進んでいく試合の一瞬を切り取ったその写真たちは、思わず見惚れるものだった。

「杉山くん?」

ぱらぱらと数ページを捲ったところで急に背後から声をかけられたものだから、慌てて本を閉じて元の場所に戻した。
別にやましい気持ちがあったわけではないけれど、人に見られるのはどことなく恥ずかさを覚える。
声の主はこちらが振り返らないことに業を煮やしたのか、一歩、二歩と近付いてきているようだ。足音がすぐ傍で聞こえる。
今度は肩を叩かれながら、確認するように顔を覗きこまれた。

「あ、やっぱり杉山くんだ」
「…苗字さん」

後ろ姿を見たくらいで声をかけてくるのは親しい友人くらいなものだから、女子の声は予想外だったというのもある。
それに加えて眼の前の苗字は数回話したことがあるかないか程度の関係だったから、なおさら。
苗字自身も驚いた顔をしていた。声をかけたのは苗字だというのに。

「珍しいね、杉山くんがここにいるの」
「そうかな」
「うん、杉山くんは図書室よりもグラウンドが似合うイメージ」

私の勝手な印象だけどね、と笑う苗字の言葉がぐさりと胸に刺さったような気がした。
まだ、苗字は知らないのだ。というより、多義がサッカーをやっていたことを知っている方が驚きなのだが。

「あれ、違った?杉山くん、サッカーやってるよね。うーんと…川原国際ヘヴンリーで」
「…あぁ」
「杉山くんがGKで、えーと、確か…青砥くん?が、FWだよね」

ご丁寧にチーム名、さらにはポジションまで把握している。
大抵の奴は青砥の方に注目することが多いのだけれど、彼女は違ったようだ。
ここまであやふやに青砥の名前を口にする女子は初めてだ。あくまでも、多義の知る範囲内では、だけど。

「実はたまーに、こっそり練習見てたんだ」
「そうなんだ」
「ね、良かったら今度試合見に行ってもいいかな」

くしゃりとした顔で笑う彼女の期待に応えることができれば良かったけれど、あいにくそれは無理な話だ。
もう少し早く出会えていれば、話せていれば良かったかもしれない。
いつまでも返事が無い多義の様子に、何かを感じ取ったのだろう。苗字の顔から笑みは消え、代わりに眉を八の字に寄せていた。

「やっぱり、迷惑かな。遠くからこっそりならいい?」
「残念だけど…もうヘヴンリーに居ないんだ」
「え…」
「サッカー、やめたんだよ」

言葉が出てこない、といった様子で口を何度かぱくぱく動かす苗字の姿が、どこか金魚に似ているなと思った。
全くこの場に関係ないことが浮かんでくるあたり、どこか他人事のような部分があるのかもしれない。
事実、もうサッカーに興味が無いといえば嘘になる。けれど、やめたものはやめたのだ。
今度はぱちぱちと何回か瞬きを繰り返す苗字の瞳が滲んで見えた。
(あ、泣きそう)
どうしてだろう。多義と苗字はそこまで親しい仲ではないのに、目の前の彼女は多義がサッカーをやめたことを本気で残念に思っているようだ。
同じようにサッカーをやめることを残念がっていた青砥よりも、苗字は感情をはっきり表に出して訴えかけてくるものだから、より気持ちがおおきいものに見える。

「…好きだったの」

ぽつりと呟く苗字の声は、ここが図書室ということを抜きにしても小さく掠れていた。
俯いていた顔を上げ、手をぎゅっと握りしめる姿は弱々しいけれど、瞳だけはしっかりと多義を捉えていた。
少しだけ濡れているその瞳でまっすぐに見つめられ、思わず逸らしたくなる。

「杉山くんのプレイ、すごく好きだったの。…こっそり見に行くくらい」

そんなことを言われるのは初めてだったから、どう返したらいいのかわからない。
苗字はそこまで背が小さい方ではないけれど、やはり多義とは身長差がだいぶあるから自然と見上げる形になる。
上目遣いで、真剣にこちらを見つめるものだから、なんだかドキドキしてしまって思考回路が鈍くなっているのもあるかもしれない。
女子とこんなに近い距離で話すことはあっただろうか。

「なんか、ごめんね」
「あ…いや」

ふにゃりと笑うと、彼女は目をそらした。
それにどこかほっとしている自分がいることに気がついて、情けないなとこっそりため息をつく。
苗字はスカートのポケットをごそごそと探っているようで、今まで両手に抱えていた本を片手で支えていた。
その様子がなんだか危なっかしかったので、持つよ、と声をかけて預かる。
ありがとう、と微笑んだ彼女は自由になった両手でポケットの奥のほうまで手を伸ばしていた。
しばらくするとお目当てのものを見つけたのか、右手でそれをしっかりと握りしめ、左手で多義の腕の中にあった本を受け取る。
本と引き換え、と言わんばかりに右手のそれを多義に手渡した。
手のひらの上に置かれたものは、すこしいびつな形をしたミサンガで。

「…ちょっと前に、作ってみたの。いつか、渡せたらいいなって。…もう必要無くなっちゃったかもだけど、でもあげる」

いらなかったら捨ててね、と苦笑いを浮かべながら苗字は出口へ向かっていた。
しばらくの間、まるで石になったかのようにその場から動けなくて、我に返るまで数分かかったのではないだろうか。
あわててドアのところまで走っていく。すでに苗字の影は小さくなりつつあったけれど、まだ声が届く距離、だと信じたい。

「苗字!」

小さな背中が、少しだけ揺れたように見えた。
確実に届けたい声だから、その背中に向かって足を進める。
身長は伸びた。もちろん、手足だって伸びた。そこらの同級生にコンパスで適わないわけがない。

「サッカー、やめたけど!でも、川原の、旧サッカー場でたまに青砥と練習はしてるから!」

だから、よかったら見に来て。
その一言を告げるために追いかけているのに、何故か喉で引っかかって出てこない。
無言のまま、だけど苗字の背中はどんどん大きくなる。
あと数歩、というところまで来たけれど、やっぱり声は出なくて、代わりに荒い息がこぼれる。
数分、といったところだろうか。いや、数秒だったかもしれない。とにかく、しばらく経ってから苗字はこちら側に顔を向けた。

「…青砥くん、練習見られるの嫌そうだよね」
「そうかもな…」
「だから、…こっそり見に行ってもいいかな」
「もちろん」

今度は自然に、するりと出てきた言葉。
その言葉で笑顔になった苗字を見れて、良かった、と思えた。
何がどう良かったのかわからないけれど、きっといいことなのだろう。
てのひらで握りしめたミサンガが、なんだか熱いような気がした。
それ以上に、頬がひたすら熱く感じる。走ってきたせいだろうか。

20120531

杉山多義(銀オフ)


「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -