「世界中のだれでも、幸せになれる権利を持ってるんだよ」

わたしのその言葉に、彼はほんの少しだけ髪を揺らして反応した、気がする。
髪留めで留められている、先端だけ他の部分と違う色のその部分がふわりと揺れる動きが好きだ。
風に揺られると、まるで意思を持った別の生き物のようにその髪はゆらりゆらりと揺れる。
その動きを見つめているだけで、何となくだけど胸の中がぽかぽかと暖かくなるから。
きっと、それだけが理由ではないと思うけれど。

「でも、権利は使ってもいいし、使わなくてもいいものだ」

目を細めながら、彼はそう言う。
遠い目で、ここではないどこかを見つめていて、瞳の中にわたしの姿なんて映っていなかった。
きっと、何年も、何十年も、何百年も昔の光景が彼の脳裏には描かれているのだろう。
彼は、いつもそうだ。
「いま」を見ようとせず。「むかし」ばかり見ている。
それがわたしは嫌だった。
わたしは、目の前にいるのに。彼は「むかし」ばかり見つめていて、こちらを見てはくれない。
それだけ、彼の心を捕らえるほど大切なことが「むかし」にあるのだろうと知っているけれど。
知っていることと、理解することは、また別の話だ。
理解することと、それを好ましく思うか思わないかも、また別の話だ。

「ねぇ」

そっと、彼の服の袖を掴む。
黒一色のその服は、彼の髪の色や肌の色にとてもよく似合っていた。
引っ張られたためか、「むかし」を見ていた彼の目が「いま」の私を捕らえる。

「諦めちゃ、やだよ」

わたしの言葉に。
困ったな、と彼はただ苦笑いをするだけだった。

「諦めているわけじゃないんだ」
「うそ」
「…僕にもその権利があったとしたら、もう随分昔に無くしてしまった。それだけの話だよ」
「随分昔って、いつの話」
「きみが生まれるずっと前、だろうね」
「そんなの、もう時効だよ」
「でも、僕はまだ覚えてる」

僕にこの記憶が残り続ける限り、僕は幸せになってはいけないんだ。
そう言って、また笑顔を浮かべた彼の顔には、悲しさと、苦しさと、切なさと、戒めと、いろんな表情が詰まっていた。
それを見るのがとてもつらくて、わたしまで苦しくて悲しい気持ちになってしまうから、だから。

「お願いだよ」
「…僕にできること?」
「わたしが幸せになるために、シュウくんも幸せになってよ」

あなたが笑顔じゃない世界で、どうやって幸せになればいいの。
困ったな、とまた彼が苦笑いを浮かべる姿が簡単に想像できた。
できれば、笑顔でいてほしいのだけれど。それはきっと無理なお願いなのだろう。
じわりと滲んだ涙が、ぎゅっと握りしめた拳が、ずきずきと胸に痛みを運んだ。

彼とわたしが幸せになるための方法は、世界のどこにあるのだろうか。

20120331


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