それは夏の日の午後だった。
受験対策に、と半ば無理矢理通わされていた塾の帰り道。
平日の昼間にこの辺りを歩いているのは夏休み中の学生くらいしかいなくて、大きな荷物を抱えて歩くその人の姿はやけに目立っていたから。
マンションのエントランスには段ボールがいくつか積み重なっていたから、きっと今日引っ越してきたのだろう。
そういえば、ずっと空室だった隣に誰か越してくる、と大家さんが言っていたかもしれない。
まだその人が隣人であると確定したわけではないのだけれど、好奇心旺盛な年頃としては顔を拝んでみたい、そう思ってしまった。
両手に段ボールを抱えているからエレベーターのボタンを押せないその人を助けるように、さり気無く後ろに付いていき、そっとボタンに触れる。
名前の存在に気がついたその人は、軽く会釈をしてエレベーターの中へと足を進めた。
ちらりと見えたその顔は、ここではない、どこか遠くを見ているような。そんな気がした。

それが、檜山さんと初めて出会った日のこと。

「ひーやーまさんっ」
「お前は朝から元気だな」
「お前じゃないです、名前。苗字名前、いつになったら覚えてくれるんですか」
「12も年下のお子様はお前で充分だろう」
「ひどーい、そしたらわたし檜山さんのことおじさんって呼びますよ」
「それはそれで傷つくな」

あの日、お隣に越してきたのはやっぱり檜山さんで、それからなんだかんだとご近所付き合いが始まった。
両親は仕事で家を空けがちだったものだから、話し相手として檜山さんは最適だったのだ。
檜山さんは親とも友達とも違う世代だったから、かえって話しやすかった。
塾に行っては帰って来るだけの平々凡々で単調でつまらない日常の中で、檜山さんの存在は砂漠のオアシスのような、貴重なものだった。
その日の献立のことだったり、スーパーの安売り情報だったり、話す内容はいろいろだったけれど、中でも檜山さんの過去の話にとても興味があった。
あまり話してはくれなかったのだけれど、すごい研究者の助手をしていたらしい。けれどもそれは檜山さんの中である種のタブーというか、知り合ったばかりの小娘である名前が軽々しく聞けるようなものではなかった。
檜山さんの醸しだすオーラ、といえばいいのか。空気、といえばいいのか。とにかく、檜山さんの隣はやけに落ち着いた。
同じマンションで、同じ間取りのはずなのに、檜山さんの部屋は家族と暮らしている部屋とは全然違う。世界の色が違って見えるような、そんな。
もっと、檜山さんの隣に居たい。檜山さんの隣で、いろんなものを見て、いろんなものを感じて。檜山さんと、意識を、感覚を共有したい。
この気持ちがなんなのかよくわからなかった。でも、しばらく檜山さんと同じ時間を過ごすうちに、だんだんと心のなかでそれはしっかりと息づいて、存在感をはっきりとさせてきて。
あぁ、そうか。そうなのか。

「わたし、檜山さんのこと好きです」

まだまだちっぽけな世界しか知らなかった名前は、それを口にすることがどんなことなのかよくわかっていなかった。
ただ、自分の気持ちに気づいてしまったから。それを言の葉にして、檜山さんに伝えたかったのだ。
最初に名前の言葉を聞いたとき、檜山さんは目を見開いて、しばらくしてからはっきりと、「ダメだ」と、そう言った。
ただその一言だけで諦めきれるなんてことはなくて、名前はその後も足げく檜山さんの元へ通った。

「檜山さんは、どんな学生生活を送ってたんですか」
「…あまり思い出したくはないな」
「いい思い出ないんですか?」
「まぁな…あぁ、でも大学で、良い友人に会えた」

その頃なら、わたしと付き合ってくれましたか?
名前の問いかけに、檜山さんはただ曖昧に微笑むだけだった。遠くを見つめる檜山さんの瞳に何が映っているのかはわからない。
いつかその瞳に、しっかりと自分を映してくれればいいのに。

***

夏休みが終わって、秋が来て、もうそろそろ木枯らしの季節になりかけた頃。
いつものように檜山さんの部屋に遊びに行くと、そこには何も無かった。
もともと家具は少ない部屋だったけれど、本当に何もなくて、まるで檜山さんが引っ越してくる前のような、そんな状態になっていた。

「檜山さん…?」

おそるおそる名前を呼ぶと、洗面所の方から人の気配がする。
そちらに顔を向けると、無表情で檜山さんが立っていた。

「部屋、どうしたんですか」
「…引っ越すんだ」
「そ、んな」

なんで、どうして。あまりにも突然で、言葉が出てこなかった。
引っ越してくるのも突然だったけれど、いなくなるのも突然だなんて。信じられなくて。

「もう止めにしよう」
「檜山さん…?」
「…お前は俺に幻想を抱いていただけなんだ。俺や、俺の生活が家や学校と違うものだったから」
「違う、そんなことな…」
「毎日つまらなくて、俺ならそのつまらない日常から連れ出してくれそうだから…そう思ってたんじゃないのか」
「…何言ってるか、わかんないよ」
「俺は、自分のために生きるのが精一杯のただの男だ」

お前の期待には、応えられない。だから、さよならだ。名前。
閉じられたドアの前にただ立ち尽くして、呆然とすることしかできなかった。
今までのことすべてが、幻想だったかのように思えた。

***

初恋は実らないものだとよく言われているが、まさにその通りだったのだろう。
入学してから数ヶ月経ち、気慣れた制服が衣替えによってまた気慣れないものに変わってしばらくしてから、あの夏の日の出会いを思い出した。
今まで名前で呼んでくれることなんてなかったのに、最後の最後に呼ぶなんて、本当にずるい人だ。
出会わなければよかった、と思った時期もあったけれど。檜山さんと過ごした日々は、うたかたのようだったけれど。

それでも、初めて人を好きになったことは、忘れない。
決して幻想を抱いていたわけじゃなく、あなたの隣に立って、あなたを支えたかっただけなのだ。
きっと、それを伝えてもあなたは子ども扱いをしてまともに取り合ってはくれないだろうけれど。

それでも、あなたが大好きでした。

20110713



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