護身用として与えられているナイフの刃がキラキラと光を返す様を、フィリアはぼんやり見つめていた。しかし、クッと顔の高さに持ち上げて、刃を己の白い頬に添える。あとは力を籠めるだけ。
「フィリア!?」
「なにしているの!」
たまたまフィリアの部屋へ訪れたアクアとヴェントゥスが、慌ててフィリアの手を止める。しばし取り合いになり、それでもアクアがフィリアからナイフを取り上げた。
「いま、何をするつもりだったの?」
「顔に傷でもつけば、誰も私をほしくなくなるって思って」
「フィリア……」
ぎゅうとアクアに抱きしめられると、フィリアは泣き始めた。
「ごめんなさい」
不穏な空気は、すでに国じゅうを覆っていた。すでに王国と帝国の国境付近ではもめ事が増えたと、キナ臭い噂が流れるようになっていた。
王都に闇の魔物が現れだしたのは、アンセムがやってきた一週間後のことだった。光あふれる王国に、闇の魔物など入り込む隙間はないはずである。急ぎテラが兵士を率いて対応に当たった。
しかし、それから毎日魔物の目撃証言や被害が相次ぐようになった。次第に街には活気がなくなり、物資は滞り、国の力がゆるやかに落ち始めた。
これは、帝国が襲ってくる前兆だと噂する者がいた。闇に落ちた国、植民地にされた国は、大抵が突如現れた闇の魔物に力をそがれた後、帝国に攻め入られ――王国が援助する暇もなく、一夜にして滅ぼされたり、屈服させられてきたのだと。
他国と王国の違うところは、キーブレードをもつ王族が複数人いることである。しばらくはテラ、アクア、ヴェントゥスが交代で街の魔物を倒し、王国の治安を維持していた。
しかし、ここまでくると、帝国へ第二王女を嫁がせろとの要望が国民からも上がりはじめた。
「豊かで強大な帝国と、婚姻という強い絆で結ばれる。良いことではありませんか。そもそも第二王女は他国へ嫁ぎ、外から国を支えるのが役目であります」
「私とて、我が子可愛さに承諾しないわけではない。他国と同じように、脅しに屈し、帝国の属国となれと言うのか」
「しかし、このままでは、いつ攻め入られるか」
「帝国が闇の力を使うならば、光の国として立ち向かわなければならない。それが光の加護を受けし我らの使命である」
結局のところ、フィリアは政治の道具でしかない。話はこじれ、揉め、結局王国も戦争の準備を始めることとなった。
フィリアには国が荒れてゆくのをただ見つめることしかできず、せめて被害が最小限になるよう祈るしかできない日々が続いた。
帝国と戦争になったのは、それから更に二週間も経たなかった。戦慣れしている帝国の方がフットワークが軽く、王国は常に後手であった。戦況は常に最悪であり、テラが戦線へと駆り出され、数日後行方不明となった報が届いた翌日には、城の頭上に敵艦が浮かんでいた。あまりにも圧倒的であった。
その夜、城の中に金や赤の瞳をした人ならざる魔物が跋扈しはじめた。美しい城の中は悲鳴と恐怖に満たされ、物が壊れ、引き裂かれる音であふれていた。
「こっちへ!」
ヴェントゥスに手を引かれて、フィリアは城の奥を駆けまわっていた。どこへ行っても赤目の魔物が行く手を阻み、ヴェントゥスがキーブレードで倒してゆく。
「異空の回廊を開くわ。あなたたちだけでも、夢の国に逃げて」
逃げた先の小部屋にアクアが待っていて、キーブレードからゲートを作り出した。星空の闇をかき集めたような黒くて丸いゲートは、キーブレード使いしか扱えない力で、危険が伴うため、滅多に使用されないものだ。
「私たちだけって? アクアは? 父さまは?」
「マスターは戦線を指揮している。私も、ここの魔物をくい止めるわ」
「そんなのダメだよ。こうなってしまったのは、わ、私のせいなのに……」
「フィリア……」
フィリアがアクアへ縋りつくと、アクアは恐怖なんてない、穏やかな微笑みを浮かべた。
「あなたのせいなんかじゃない。大丈夫よ。マスターとここを乗り切ったら、テラを見つけて、必ずあなたたちを迎えに行くから」
そうして、彼女はヴェントゥスを見る。
「ヴェン。フィリアをお願いね」
悲痛の表情でヴェントゥスが彼女へ頷いたときだ。
「自分たちだけ逃げるだなんて、まったく、勝手な連中だな」
ここにいるはずのない声が響く。全員が声の方を向けば、見覚えのある黒髪――ヴァニタスが立っていた。
「おまえは!? どうやってここに入った!」
アクアが警戒し、キーブレードを向けるも、ヴァニタスはさして取り合わず、ヴェントゥスを見つめて笑った。
「ヴァニタス……!」
「よぉ、兄弟。言っただろ。再会はすぐだって」
ヴァニタスの手に闇が宿り、赤と黒の歯車に鎖が巻きついたキーブレードが現れる。
「帝国の者か!」
アクアが斬りかかると、ヴァニタスは己の剣で受け止めニヤリと笑う。
「キーブレード使いは全員回収する。貴重な素体だからな。それと――おまえもだ、第二王女」
彼がパチッと指を鳴らすと、床から湧き水のように闇があふれだし、ブクブクと魔物へと姿を形作ってゆく。あっという間に部屋の中が魔物だらけとなり、取り囲まれた。
フィリアには戦闘能力はない。ただただ怯えていると、ヴェントゥスがキーブレードを出し、構えた。
「フィリア、俺から離れないで」
「ハッ、俺と戦いながら、そんな余裕なんてないだろ!」
魔物たちがアクアへと殺到し、ヴェントゥスにはヴァニタスが襲いかかってきた。
激しい戦いは、それほど長くは続かなかった。
たった数分後には、アクアが太った魔物に踏みつけられ、ヴァニタスに蹴り飛ばされたヴェントゥスが床に転がっていた。
「なんだ、この程度か」
床に這いつくばるヴェントゥスに片足を乗せたヴァニタスが、つまらなそうに吐き捨てる。
「がっかりだよ、兄弟。これじゃあおまえは、帝国に戻る価値も――生き残る価値もない」
ヴァニタスのキーブレードに炎の魔法が宿る。それがヴェントゥスへと向けられたとき、フィリアの足は勝手に動いた。
「やめて!」
「なっ――!?」
フィリアがヴァニタスに抱き着いて倒れた拍子に、炎の魔法がそれて、ちょうどアクアを押さえていた魔物に当たった。魔物は一瞬で消え失せ、自由になったアクアがヴェントゥスに駆け寄る。
「アクア、ヴェンを連れて逃げて!」
「はっ? おい、離せ!」
「絶対に離さない!」
フィリアは押し倒したヴァニタスの顔に必死に抱きしめる。胸元に顔を埋めさせられたヴァニタスが、もがもがと抵抗するが腕を捕まれたフィリアが痛がると慌てて力をぬくため、フィリアでも押さえつけることができた。
「アクア。離して、フィリアが」
「だめ、行って。早く!」
「――必ず、迎えに行くわ!」
「フィリア!」
フィリアは、手を伸ばしたヴェントゥスが、アクアに引きずられるように異空の回廊へ入るのを見届けた。回廊は二人を飲み込んだとたんに消え失せて――その日、王国は帝国の傘下へと下った。
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