最初の一曲が終われば、あとは自由だ。またパートナーと踊るもよし、別のパートナーに申し込むもよし、人脈作りに走るもよし、壁の花となるもよし。
当然のように、ヴァニタスはヴェントゥスに寄ってきた。
「十年ぶりだな。兄弟」
「ヴァニタス」
ヴァニタスはヴェントゥスの衣装を見て、つまらなそうに失笑した。
「帝国の落ちこぼれ皇子が、国王の掌中の玉である第二王女のデビュタントのエスコート役か。おまえ、あちこちでやっかまれてるぜ」
「私がヴェンを選んだのです。誰にも文句は言わせません」
十年ぶりの兄弟の会話に割り込むべきではないかと迷いつつも、フィリアはヴァニタスへと言い放った。すると、ヴァニタスは形のよい眉を僅かに歪ませたものの、フィリアへ品定めするかのような視線をジロジロと投げてきた後に、まるで絵になるような仕草で頭を下げた。
「これは挨拶もせず、失礼――初めてお目にかかる。未来の姉上」
最期のセリフのとき、ヴァニタスはクッと笑っていた。フィリアはポカンと彼を見つめる。
「姉ですって? 何をおっしゃっているの?」
「ヴァニタス。フィリアから離れろ」
ヴェントゥスがフィリアとヴァニタスの間に割り込んで立つと、やれやれ嫉妬深いなとヴァニタスが肩をすくませた。
「今に分かるさ。またな兄弟。次の再会はすぐだ。その時は、こんなくだらないダンスなんかじゃなくて――もっと、楽しいことをしよう」
美しく整った顔に小悪魔な微笑みを浮かべたヴァニタスが、人混みの中に消えてゆく。
呆気にとらわれながらも、フィリアがヴェントゥスを見上げたときだった。会場がざわめき、音楽が止まって、会場の雰囲気が変わる。
人だかりが、その人物のために道を開ける。重厚なブーツの靴音のひとつひとつが、やけにクッキリフィリアの耳に届いた。
テラほどの年齢なのに、強烈な存在感を放っていた。銀の髪、褐色の肌の容姿端麗なその男は、帝国の正装を見事に着こなし、胸には勲章をいくつもぶら下げていた。両隣に同じように銀髪で褐色の男たちを従えて、自信と傲慢に満ちた表情でエラクゥスの前で足を止める。
「遅れて申し訳ない」
「いいや。よく来てくれた。ゼアノート殿」
ザワッと周囲の者が騒ぐ。その名は高齢である現皇帝のものであり、そう名乗ることを許されるということは、彼が帝位継承第一位である何よりの証であった。
「こんなに若い皇子が」と誰かが呟き、彼の両隣に控える屈強な男たちは、彼の兄であることも囁いていた。
帝国はその強大さゆえに、覇権争いも他国の比ではない。裏切り、謀殺、暗殺の熾烈さは、城の奥に引きこもっているフィリアにさえ聞こえてくるほどである。
周囲の声が聞こえていないわけはないだろうが、全く気にした様子はなく、涼しげな笑みのままゼアノートは国王と話を続ける。
「本日は第二王女のデビュタントと聞いております」
金色の瞳がすいと動き、フィリアのところでぴたっと止まった。フィリアは心臓をわしづかみにされたかのような錯覚を覚え、思わずビクリと震える。フィリアが第二王女だと確信したゼアノートの愛想笑いが、なにか含みのある深い笑みへと変化してゆくのを見つめた。
「あ……」
ゼアノートがまっすぐ近づいてきたので、フィリアは逃げだしたいと思った。しかし、客人の前で逃げ出す王族などありえない。テラくらい高い身長の男が目の前に立ち、恭しくお辞儀をしてくるのを怯えた表情で見つめた。
「初めてお目にかかります。フィリア様。今日の佳き日に、ぜひとも、姫のダンスの相手を勤める栄誉を私に頂けませんか」
「……喜んで」
この男から視線を剥がせない。エラクゥスやテラたちへ助けを求める視線を送ることすら許されなかった。差し出される手にフィリアが震える手をかぶせると、繊細に扱ってきたヴェントゥスとは違い、振り払うことができないくらいにしっかりと握られ、丁寧ではあるが、有無を言わさない力強さで会場中央へと導かれた。
音楽が再開される。フィリアはまるで怖い夢を見ているような気分だった。まさか、第二王女というさほど高くもない身分の己が、過酷な帝位争いを制した男と踊る日が来るとは思ってもいなかった。覇気のある瞳には野心が燃えているが、一方でゾッとするほどの冷酷さも感じられる。
彼のダンスは帝国式なのだろう。どこか強引であはるが、安定し、踊りやすいリードが続く。
踊りながら見つめ合っていると、ふっとゼアノートの表情が和らぎ、囁いてくる。
「王国が羨ましい。帝国には、あなたほど美しい姫はおりません」
「えっ? あの、お世辞でも、嬉しいです……」
まさかこの男からお世辞を言われるとは想像もしていなかったので、フィリアは思わず素で赤面してしまった。恥ずかしくて視線が泳ぐフィリアに、ゼアノートはにこっと笑う。
「本心ですよ。フィリア様にお会いできるのを、ずっと心待ちにしておりました」
「あなたほどの方が、私などに……?」
「ええ。そして、決めました」
強く握られている手が、更にきゅっと捕まれた。とたん、男の口端がつり上がり、一瞬だけ邪悪な笑みとなる。
「必ずあなたを手に入れると」
狙ったようなタイミングで、ちょうど音楽が終了する。彼は最後に硬直しているフィリアの手の甲にキスをすると、何事もなかったかのような顔で優雅にお辞儀をして去って行った。
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