シミひとつない純白の石で造られた天井や壁を見た途端、フィリアはギョッと跳ね起きた。上等な長椅子に寝かせられていたらしい。知らない部屋の香り、センスよく配置された一級品の家具や装飾の数々に心当たりがないか記憶を探るが、どれも王国にないものばかりだ。
「目覚めたか」
部屋の奥から男が現れて、フィリアは椅子から転がり落ちそうになるほどに驚いた。忘れるはずもない、ダンスを共に踊ったゼアノートである。初対面の時とは違い、黒いシャツの襟元をくつろげさせた、ずいぶんとラフな恰好をしていた。
「ようこそ、フィリア様。我が国へ」
近寄ってくる男に、フィリアは急いで武器になるものはないか周囲を探した。悲しきかな、ふかふかなクッションしかないので、仕方なくそれを掴んで投げた。ゼアノートはちょっと驚いた顔を見せたが、余裕で避ける。
「よくも、そんな涼しい顔ができたものですね。今すぐ、私を王国へ帰してください!」
キッと奥歯を噛んで強気に睨んでやる。これが今できる精一杯であった。
「思っていたより、元気そうでなによりだ」
彼は歩調を崩さず、フィリアの正面に配置されていた立派な椅子に、ゆったりと腰掛けた。
「王国は我が国に敗北し、属国となった。おまえには、これからここで暮らしてもらうことになる」
その瞬間、好青年のお手本のような笑顔から、あの一瞬に垣間見えた、悪魔のような笑顔へ変わる。口調の変化より、その底知れぬ笑みに、フィリアはゾッと身を固くした。
「い、嫌です」
「敗戦国が逆らえるとでも?」
「それは……」
「おまえが素直に求婚を受けていれば、同盟国扱いで済んでいた」
痛いところを突かれ、虚勢を張っていたフィリアの身体はビクリと揺れてしまった。確かに、フィリアが自ら帝国へ行くと言っていれば、家族も、国も傷つけることを回避できていたかもしれない。自責の念にかられ、フィリアの視線は床に落ちてゆく。
「しかし――」
ゼアノートが足を組みながら言った。
「無事に到着してなによりだ。もし、おまえが他国へ逃げていたら、一日に百人程度、王国の国民を処刑でもして、あぶりださねばならなかったからな」
あまりにも非道な発言に、フィリアはギョッと己の耳を疑った。
「いくら戦勝国でも、そんな非人道的なことが許されるとでも」
「俺が許しを乞う相手などいない。それに、全てを闇に落とすよりは、よほどマシだと思わないか?」
あんまりな回答に、フィリアは閉口する。どこか達観してしまっているゼアノートの金の瞳から、この男は目的のためにどんな犠牲も厭わない、本当に実行するかもしれないと感じた。
恐れるフィリアへ向けて、男が爽やかな笑顔を作る。
「さて。俺たちの婚姻だが、事情が変わったため、すぐにはできない。しばらくは婚約という形で」
「待って!」
ギクリとして、フィリアはイスから立ち上がり、瞳だけで見上げてくるゼアノートを見下ろす。
「いま、私たちの婚姻って聞こえましたが」
「そう言った」
「あなたが私と結婚する必要なんて、もうないでしょう?」
「なぜそう思う?」
問われるとは思わなかった。フィリアは屈辱を堪えながら素直に答える。
「……今更、属国となった王家と婚姻を結ぶ利など、それほどあるようには思えません」
ゼアノートは答えず、しばらくフィリアの顔をジッと見てきた。そうして、クスッと笑いを落としたので、フィリアはアッと気づく。
「まさか、側室ですか。ハーレムに入れと……」
「いや、正室だ。ハーレムなんて面倒なものを持つつもりはない」
今度は口元に手をあててクックッと笑うので、フィリアの頭の中は混乱した。頬を膨らませてゼアノートをねめつけると、ゼアノートは愉快そうに語る。
「確かに、おまえの言う通りだ。帝国にとって、もはや王国との婚姻は必須ではない」
無価値だと言われた気がして、フィリアは思わず手を強く握る。
「しかし、これから王国をどうするかは、おまえにかかっている」
「それって、まさか――!」
脳裏に浮かんだ可能性に、ハッとフィリアは顔を上げる。ゼアノートの艶やかな唇は微笑んだまま、つらつらと述べた。
「国王は城で戦死した。第一王位継承者のテラは行方不明。第二位のアクアは民を見捨てて逃亡した。帝国に支配された王国を守れるのは、おまえしかいない」
目の前が真っ暗になった錯覚に、フィリアはしばらく呼吸すら忘れた。足の力がぬけ、再びソファにすとんと座る。
「そして、おまえの状況だが」
「わたし……?」
愛する父親の訃報にショックでぼんやりしてしまって、フィリアは虚ろにそれを聞いた。
「いま、おまえは“傾国の姫”などと吟遊詩人どもに呼ばれている。帝国の皇子がひと目で恋した美貌の姫。皇子の求婚を拒んだがため、国を滅ぼすこととなった――とな」
吟遊詩人たちは、国境を超えて様々な情報を民たちへ流す。自由を愛す彼らの中には、権力者に指示されて特定の噂を流す輩も多い。
「我が国を攻め落とした理由を、私に押しつけるつもりなのですね」
にっこりと微笑む男に対し、フィリアの心に憎しみがつのった。
「このままでは少なからず、おまえは国民から国を滅ぼされた原因として恨まれることになるだろう。国王も、娘可愛さに国を滅ぼした暗君と罵られることになる」
「父は、そんな人じゃありません!」
「そういうことにしてやろう。残りの筋書きは、こうだ」
この会話の流れすら、ゼアノートの掌の内だろう。フィリアは悔しんだが、己にはなんの切り札もない。
「亡き名君であった父に従い、姫が皇子との結婚を受け入れる代わりに、王国にある程度の自治権の確保を帝国と取引する。姫により国は支配されたが、最悪は免れた。国民は王族親子に感謝する。そして学ぶのだ。あの帝国には決して逆らってはいけない――と」
フィリアの握られた拳が震える。建前だけを繕った、なんて雑でひどい話だと思ったが、それでも、植民地にされるよりは国民の人権と生活は保障されるだろう。
「それでは、あなたは姫に無理やり結婚してもらった、情けない皇子ということになりますね」
精一杯の皮肉は全く効いていないようだった。
「帝国が――俺が、目的のためなら手段を選ばないと他国に示してやるにはちょうどいい。加えて、俺のことは完全無欠、眉目秀麗、秀外恵中、蓋世之才だと世界中に発信しているやつがごまんといるからな。気にしていない」
発信しているのはお身内ではなくて。フィリアはその言葉は飲みこんでおく。
「……まだ、聞いていないことがあります」
豪奢なソファの上で、小さく俯きながらフィリアは問うた。
「王国を支配したあなたが、私と結婚することで、いったいどんな利があるのですか」
まさか、本気でこんな何もない小娘に惚れてはいないだろう。フィリアは表情を削いだ顔で彼を見つめる。ゼアノートはやはりフィリアを見つめ、少し間をおいて言った。
「姫は、己の価値も分からないようだ」
そうして、一本一本指を立てて説明してくれる。
「最近、急速に他国を支配しすぎたからな。王国ほどの国土を管理する人材が足りていない。また、王族が進んで帝国に身を捧げる姿を見せることで、少しでも国民の反意を削ぎ、反乱などの面倒をなくしたい。あとは――アクアとヴェントゥスは必ずおまえのために戻ってくるようだからな」
二人の名がでたとき、フィリアはポケットから繋がりのお守りを取り出した。中央から先端に向けて輝く白のグラデーションに着色されたそれは、部屋の照明にも美しく光を跳ね返している。
「ふたりをどうするおつもりですか。ヴァニタス様が仰っていました。キーブレード使いは貴重な素体だとか……」
「そう。我が国にとって非常に貴重な人材だ。失うには惜しい」
あの時の星空と、アクアのセリフがフィリアの頭の中に鮮やかに思い出された。どこにいても、何をしても繋がっている。そう、たとえ、二度と会えなくても。
「……わかりました」
それは希望ではなく、諦めの気持ちだった。
「いまから、私はあなたに従います。その代わり、さきほど言った筋書きの条件を守ってください。いたずらに王国の民を傷つけはしないと約束してください」
「もちろん。話は終わりだ」
ゼアノートがヴァニタスの名を呼ぶと、部屋に闇の回廊が生まれ、黒猫のように真っ黒な恰好をしたヴァニタスが静かに現れる。
「聞いていたな。姫を部屋に連れて行け」
「はい。マスター」
そして、ヴァニタスに別の部屋に連れていかれた。先ほどの部屋はゼアノートの私室だったようだ。あれよりは小さいが、それでも美しく素晴らしい家具に囲まれた、女性らしい部屋に通される。
その豪華絢爛さにはしゃぐわけもなく、フィリアはしばらく俯いたまま立ちすくんでいた。すると、部屋を出て行こうとしていたヴァニタスが、わざとらしくため息をしてくる。
「王国を守りたいなら、自害しようなんて思うなよ。諦めるんだな。アイツに気に入られたのが運の尽きだ」
唐突の言葉に、フィリアがはてと彼を見ると、ヴァニタスはフィリアからそっけなく顔をそらした。
「帝国のヤツも、他国のヤツも、ゼアノートに近寄るやつは、いつも媚びて色目をつかってくる奴らばっかりだった」
「どういうこと……?」
「アイツは実力主義のくせに潔癖なんだよ。力がないくせに権力に媚びて騙るやつが許せない」
そう話すヴァニタスは、少しイライラしているようだった。
「今更、属国の王族を正妃にするメリットなんてほとんどない。結婚の話がでたとき、おまえがそれを利用するつもりで乗ってきたら、結婚なんてしないで、王国を植民地にしていただろうな」
ゼアノートは基本、よどみなく話していたが、たまにあった“ちょっとした間”と、その時の観察するような目つきは、その判断をしていたのかとフィリアは納得した。
「まぁ、よかったじゃないか。大人しくしていれば、晴れて未来の大帝国の王妃様だ。そのまま素直で、正直でいろよ」
何も答えられないフィリアにからかうように言い捨てて、ヴァニタスは去って行った。
2.4.29
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