「あ、オキアミちゃん〜」

 中庭を歩いていると、声をかけてきたのは授業をサボリ中のフロイドだった。うまいこと木や植木の影に隠れ、草の上で寝っ転がっている。

「何してんの? こっちにおいでよ」
「うん?」

 別に急いでいなかったため、呼ばれるままフロイドの側へ行った。彼は気分のムラが激しいため、機嫌が悪そうな時は近寄らない方がいいとユウに言われていたが、今日はニッコニコの上機嫌に見える。

「本当に来た〜」
「だって、呼ばれたから」

 彼と同じように草の上に腰かけると191センチの大きな体が起き上がって、自分の頭なんてボールのように掴めてしまうほど大きな手に、手首をガシッと掴まれた。

「アハッ、捕まえたぁ〜」

 まるで小さな子どものよう。はしゃいでいるフロイドに「もっとこっち」と引っ張られ、長い足の間に座らせられた。

「呼ばれたから来るなんて、オキアミちゃんはイイ子だね……でも、こんな簡単に他人の言うことを信じたり従ったりしちゃったらダメだよぉ」
「大丈夫。ユウにたくさん言われたもの。今は、ちゃんと友達だけ!」

 「へぇー」と相槌をうちながら、フロイドは笑顔のまま、何か考えているようだった。
 もう用がないのなら放してほしいな。掴まれていた手をちょっと引っ張ってみるも、フロイドは放してくれないどころか、更に彼の方へ引っ張られた。よいしょー! みたいなノリで体勢が変わって、彼の太ももの上へ子どものように座らせられる。

「えっ、な、なに?」
「何が?」
「どうして抱っこするの?」
「え〜? オレがオキアミちゃんを抱っこしたかったから」

 無邪気な笑顔で返されて、思わず毒気を抜かれて閉口する。彼の厚い胸板によしよし抱きしめられて、まるで赤ちゃん扱いだ。恥ずかしいし、恋人でもない男の人とこういうことをするは良くないことだと頭の中で警報が鳴っているけれど、痛いわけでもなし、我慢できる。友達のため。したいのなら、しばらくこうしていてあげよう。
 そうして木の葉が風にサラサラ鳴っているのを聞いていると、「ねぇ」とフロイドが低い声で言った。

「オキアミちゃんてさ、トモダチなら、誰にでもこういうことさせてんの?」
「こういうことって?」

 何やら責められている気配を察し、そっとフロイドの顔を見上げると、笑顔の質が変わっていた。彼の表情は確かに笑顔のはずなのに、瞳の温度が冷えている。

「たとえば、これは?」

 フロイドの腕を掴んでいない方の手が、頬から首筋を指でつーっとなぞってきて、鎖骨で止まる。

「アハ、くすぐったい」
「イヤじゃねーの?」

 囁くような声音がいったい何を探ってるのか分からず、うんと頷く。

「なんで?」
「え。友達――だから?」
「フーン。じゃあ、これは?」

 顎をクイと上げられて、頬に軽くキスされた。幼い頃にアクアにしてもらったことを思い出し、懐かしくなる。

「イヤじゃないよ!」

 ふふっと笑いながら答えると、フロイドもふふふっと笑った。穏やかな昼下がり、ほのぼの笑い合ってると感じたのはほんの一瞬だった。

「オキアミちゃんてバカだねぇ――稚魚だから手ェ出されないと思ってんの?」

 水底から這うような低い声の内容を理解する前に、くるんと視界が回って地面に寝転がっていた。上には巨大な男がのしかかっており、ふっと笑顔の消えた無表情が逆光と相まって6割増しの迫力をだす。

「……エ……?」

 見下ろしてくるフロイドの二色の瞳に、ポカンした自分が映っていた。

「オキアミちゃん小さすぎるからさぁ。食べごろまであと1、2年かかるでしょ。我慢して待っててあげてるのに、こうも簡単だと心配になるっていうか――つまみ食いくらいしてもイイよね?」

 フロイドが大きな口をアーンと開けるものだから、本能的に身体がすくんだ。綺麗に並んだギザギザの歯に視線が吸い込まれる。彼と彼の相方は、海では捕食する側なのだと教えてくれたのは誰だったっけ。

「や、やだ。食べないで」
「アハ、今頃怖がってもダーメ」
「友達なのに、なんで……?」
「だってオレ、オキアミちゃんのこと、トモダチなんて思ったことねーもん」

 生まれて初めて、言葉で頭をブン殴られたと思った。
 目の前が真っ暗になったと錯覚するほどのショック。
 心のつながりを力として戦うキーブレード使いとして、時には敵対したとて、共に困難を乗り越え、認め合ったら友だちだと信じてきた。
 これまでのフロイドと友情を感じたと思ったやりとりは、こちらの一人よがりだったのか。
 放心してるこちらに気づかず、フロイドは「っていうかさ〜」とダルそうに続けた。

「トモダチとかユージョーって言葉で縛って利用してくんの、ウザくね。必要ならつるむ、要らなければ離れるでいーじゃん。何も返せない小魚を助けるなんて……うわ。オキアミちゃん、なんで泣いてんの?」

 驚いたフロイドの指が涙を何度も拭ってくる。今はこの人に触ってほしくないと手を払っても、長い指はヨシヨシつきまとって離れてくれない。

「やだぁ、もう、触らないでよぉ!」

 こっちは悲しくて泣いているというのに、原因はアハハと笑った。

「ガチ泣きじゃん。なぁに。オレとトモダチじゃないの、そんなに悲しかった?」

 からかって、ヒドイ人だ。ムッと睨み、大きな手をペシッと叩くと面白いと喜ばれた。

「怒ってる〜。大丈夫だよ。オキアミちゃんはトモダチなんかより、もっとずっと大事だからさ……」

 甘い囁きに、現金なもので、涙がちょっと止まる。

「どういう意味?」
「ん? 知りたい? 教えてあげようか?」

 間近で微笑むフロイドの金色の右目が爛爛と輝いている。危険だと分かっているのに、抗えない。どうしても惹かれる魅力があった。
 
「知りたい。教えて」

 答えた時、彼の瞳孔がキュウと細まったのが見えた。フロイドはペロリと唇を舐め、顔をゆっくり近づけてくる。

「いいよぉ。たぁっぷり教えてあげる……」

 「口、開けて」と指示されたので「あー?」と開く。次の瞬間にはフロイドにキスされていて、口の中に彼の長い長い舌が入りこんできた。





「あー、気持ちよかったぁ」

 キスで、あんな音がするなんて、夢にも思っていなかった。
 ぜぃぜぃ、ケホケホ荒い息を繰り返す身体を支えてくれるフロイドは、無邪気な上機嫌顔に戻っていた。

「ねぇねぇ、オキアミちゃんも気持ちよかった?」

 突然とんでもないことをしてくれたフロイドを殴りつけてやりたいが、腰が砕けて力がはいらない。喉まであの舌を入れられたときには窒息死を覚悟した。
 マイペースな気分屋男は、答えないこちらに業を煮やし、可愛らしい拗ね顔になる。

「なーに? 足りなかった? もう一回する?」

 そして本当にしてこようとしたので、慌てて叫んだ。

「待っ、こういうのは、恋人とじゃないと、ダメなんだよ!」
「でも、オキアミちゃん。オレとキスしちゃったじゃん」

 自分の意志ではなかったキスだったとしても、その通りだ。ウグッと反論の言葉に詰まる。しかも、絵本や小説で読んできた、ただ触れるだけのロマンチックなキスではなく――なんて下品で、生々しくて、身体の奥底から火照るような……。

「これで、いくら能天気なオキアミちゃんでも分かったよね?」

 フロイドの親指の腹が気安く唇をなぞってきて、鋭敏なままのそこがゾクッとする。さっきまで首を触られたって平気だったのに。

「オレがオキアミちゃんのこと、どう思っているか」
 
 いけしゃあしゃあと、何も悪いことしていないと言わんばかりに優しく微笑むこの男はズルイと思う。彼を見る意識が変わったためか、思わず綺麗な笑顔に見惚れていると、ふにふにと唇が押されだす。「やっぱり、もう一回しちゃお〜」なんて気軽さで、再び唇が塞がれた。



R2.9.10


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