スカラアドカエルムをひとりで散歩していたフィリアが、そろそろみんなと合流しようと教室へ向かっているところだった。
 すぐ先にある、薄暗い通路の中に誰かいる。ふわふわの白い髪の少年であることからバルドルだとすぐに気づいた。彼は少し俯き加減で壁にもたれかかっている。

「バルドル。どうしたの?」
「え? あ――フィリアか」

 バルドルはフィリアの気配に気づいていなかったようで、不意をつかれたような顔をしていたが、すぐに柔和な笑みを返してくる。しかし、その顔色は真っ青だ。

「もしかして、具合が悪いの?」
「なんでもない。少し疲れただけ」

 バルドルが逃げ込むように暗い通路の中へ立ち去ろうとしたので、フィリアは彼のバルドルの手を掴み、日当たりのよい白いベンチを指した。

「あっちにベンチがあるよ。疲れたなら、少し休もう?」

 笑みを消したバルドルがじっと見下ろしてくるので、フィリアは「ね、一緒に休もう」と更に彼へ提案した。



 バルドルはフィリアの見立て通り体の調子が悪かったようで、ベンチに腰かけるなり目を閉じ、胸元に手を当てて黙っていた。フィリアはバルドルの隣に座り彼を見上げた。

「辛かったら、寄りかかっていいから」

 見つめられていると気づいたバルドルが、薄っすら目を開きフィリアへ曖昧に笑った。

「俺はもう大丈夫。それより、エラクゥスたちのところへ行くつもりだったんだろ」

 俺はもう少し休むから。先に行きなよと突き放すように言うので、フィリアは更に彼が心配になった。普段からの付き合いで嫌われてはいないはずだし、温厚で親切なバルドルらしくない。
 バルドルは拒絶するような言葉を吐きつつも、ベンチの誘いにはついてきた。フィリアには、彼は助けを求めているのに頼れないといったような悩みか迷いがあるように感じられた。

「いまはバルドルの側にいるよ。置いてきぼりになんてしないから、怖がらないで」

 すると、バルドルの目が驚いたように丸くなる。

「……本当に?」
「うん」

 フィリアが笑顔で答えると、ほんの少しだけ沈黙が流れた。バルドルがくすっと笑う。

「やっぱり、少し寄りかかってもいい?」

 フィリアが頷くと、バルドルは猫のようにフィリアの肩口へそうっと頭を置いてきた。バルドルの方が体が大きいため、本気で寄りかかられたら倒れてしまうだろう。それでも彼は落ち着いたように息を吐いた。フィリアはそっと背を伸ばし、バルドルが少しでも楽になれるかと気を配った。
 何分そうしていただろうか。ぽかぽかした陽の光にバルドルがウトウトしはじめる。

「姉さんとは違うのに、不思議だな……でも、そうか、ゼアノートも、それで……」

 ぽつぽつ呟きながら、バルドルは眠ってしまった。



 その日のできごとを境に、フィリアの周囲にバルドルがいることが増えた。本を読んでいればバルドルが隣で本を読んでいるし、エラクゥスと買い物へ出かければ荷物を持つとか言って付いてくる。気がつけば、フィリアはトイレや入浴、睡眠以外の全ての時間をバルドルと共有していた。
 もちろん、周囲の子は突然フィリアを追いかけだしたバルドルへ理由を訊ねた。それに対し彼はニコッと笑んで

「フィリアの側は安心できるから」

 と答えていた。フィリアにとっても、バルドルはうるさくもしつこくもなく、困った時はさりげなく助けてくれるのでむしろ居心地が良く、追い払う理由もなかった。強いて気になると言えば、たまにゼアノートと無言の睨み合いをしていることくらいだろうか。それと……他人の興味を引いてしまっていることも。

「ねえねえ、フィリア。あなた、誰が本命なの〜?」
「バルドル? ゼアノート? それともやっぱりエラクゥスなの?」
「3人と付き合ってるって本当?」

 風呂場にて遭遇した、別のクラスの女の子たちにキャアキャア盛り上がられて、フィリアは言葉で答えず苦笑を返す。恋愛だ本命だなんて言われても、自分の気持ち、相手の気持ち、なにひとつだって分からないのに決めつけて話しかけられても迷惑でしかない。

「私たち、もうあがるから通してくれる?」
「はいはい。終わり! 散った散った!」

 ウルドとヴェルがサクサク野次馬たちを追い払ってくれるのでフィリアはふたりに感謝する。

「ありがとう、ふたりとも」
「いいって。友だちが揶揄われるのって、いい気分じゃないし」
「そうそう。また他の子に何かいじわるされたらいつでも言ってね!」

 フィリアはふたりにもう一度感謝を伝えて、自室へ歩き出した。今日は、あとは眠るだけ──。無くしていないか確認に、ポケットから駒を取り出した。銀の王冠がついた白い駒を眺めながら歩く。

「私、いつまでこの世界にいるんだろう?」

 駒は答えない。フィリアはため息を吐き、改めて駒をポケットにしまいこんだ。


 フィリアがベッドにもぐりこんだ時、ひかえめに扉がノックされた。
 消灯時間が近いタイミングに誰だろう。フィリアがいぶかしげに思いながらも慎重に扉を開くとバルドルが立っている。

「バルドル。こんな時間にどうしたの?」

 バルドルは、やぁと苦笑した。

「フィリアと話したいことがあって」

 日中だったら歓迎したが、さすがに深夜が近いためフィリアは躊躇った。

「いまじゃなくちゃだめな話?」
「うん」

 申し訳なさそうに眉を下げた笑み。フィリアは悩んだが、結局仕方なくバルドルを部屋に招き入れた。



 ここで与えられた家具は必要最低限になっている。机と椅子とベッドがひとつずつしかないため、バルドルに椅子を使ってもらい、フィリアはベッドに腰かけた。
 しばらく、沈黙がおちる。
 バルドルの望む話しあう体制が整ったのに、言い出しにくいのか、バルドルは俯いていた。その間、フィリアはバルドルを観察する。最近は生まれたてのヒヨコのようにフィリアの後ろをついてきていたバルドルはとても朗らかな笑顔を見せていたが、今の彼はいつかの不調の時以上に絶望を前にしたかのような深刻で辛そうな表情をしていた。急かすべきではないと感じ、フィリアは辛抱強くバルドルが話し始めるのを待つ。
 そうやってフィリアが見つめていると、やっと意を決したらしいバルドルは怯えるように恐々とフィリアを見つめ返してきた。

「フィリアは、いつかここからいなくなるのか?」

 フィリアは思わず息をのんだ。フィリアより先に現れた異世界人のゼアノートはすっかりこの世界の住人になっているため、フィリアも同じだろうと思っている子が多かった。けれど、フィリアにだってこの状況は自分で制御できていない。ただ流されているだけだ。
 フィリアは気まずさから、バルドルの瞳から視線を下に逸らして答えた。

「それは、私にも分からない」
「どうして!」

 ガタッとバルドルが立ち上がって強く肩を掴んできたので、フィリアは心底驚き彼を見上げた。バルドルはひどく傷ついた表情をしており、フィリアは思わず言葉を失う。

「バルドル?」
「俺を置いて行かないって言ったのに……」

 フィリアは軽く混乱しつつも、バルドルはただ寂しがっているだけなのかなと、この時はまだ彼を宥められると思った。

「ごめんね。私にも、自分がいつどうなるかわからないの。せめて、出来る限りこれからもバルドルと一緒にいるから──」
「そんなの嫌だ」

 低い声の拒否の後、フィリアはぐっと体を押された。あっけなく、ぽふっとベッドに上体が倒れる。

「フィリアからは、姉さんと違って普通の人と同じように闇を感じる。それなのに、近くにいるとあたたかい光に包まれているみたいで、こんな感覚は初めてなんだ」
「バルドル、手を……」

 肩を押さえられているため起き上がれないフィリアの上にのしかかりながらバルドルは言葉を続ける。フィリアにはバルドルの言っている内容がよく理解できないが、いま本気で抵抗したり逃げたりしたらバルドルが壊れてしまうような危うさは感じ取っていた。

「こんなのフィリアだけだ。フィリアがいなくなったら、俺は、また──」

 バルドルはそのままフィリアに覆いかぶさるように抱きついてきて、フィリアの肩口に顔を埋めて動かなくなった。相手は自分よりも大きな子だが、まるで小さな迷子が助けを求め泣いているような哀れみを覚えたフィリアは、どうしたらバルドルを励ませるか必死に考えた。

「私にはよく分からないけれど、私といることでバルドルが助かっているなら、嬉しいよ」

 いい子、いい子とフィリアは手の動く範囲で彼の柔らかな髪をなでてやる。バルドルも風呂上りなのだろう。シャンプーの香りがした。

「でも、悲しまないで、バルドル」

 ふわふわで艶やかな手ざわりを楽しみながらフィリアはバルドルへ優しく囁く。

「私にできることなら何だって協力するし、クラスのみんなだって、バルドルが困っているなら力になってくれるはずだよ」

 強くて優しく、素直で賢いクラスメイト達を思い出せばバルドルが元気を取り戻すと思ったフィリアの予想は、すぐに的外れだったと思い知ることになる。
 バルドルは小さく笑った。

「わかってないな」

 バルドルは腕を突っ張って、フィリアを見下ろしてくる。

「俺に必要なのはフィリアだけだって言ってるのに。やっぱりフィリアにとって俺はその程度の存在なんだな」

 そんなことないとフィリアは必死で首を横にふるも、バルドルの自嘲を変えることはできなかった。

「だから、考えたんだ。俺がフィリアを必要としているくらい、フィリアにも俺を必要と思ってもらえる方法を……」

 フィリアの頬に手を添えたバルドルのほほ笑みを見た時、フィリアはやっと己に降りかかろうとしている事態に気づいた。どうしようと考えている間に、バルドルに口づけられてしまう。


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