焦げ臭さは少し残っているものの、子供たちの笑い声が聞こえてくる。夜が明けた頃には鎮火が終わり、街に平安が戻ってきた。
フィリアはソラと教会の食堂にいた。暖かいスープとみずみずしい野菜のサラダ、とろけたバターが乗せられたトーストをソラはペロリと平らげ、コップの淵までたっぷり注がれたミルクをおかわりまでしていたが、フィリアの皿はちっとも減っていなかった。昨晩から一睡もしておらず、目の下にはうっすら隈が浮かんでいる。
「なぁ、食べないの?」
答える気力もない。フィリアは目を閉じて頷いた。ソラはそうか、と少し黙り、あのさ、とまた口を開く。
「もうすぐフィリアを迎えにマスターが来るんだ。これで一緒の旅はおしまいだな」
「……お別れなの?」
「またすぐに会えるよ。きっと!」
ちょっぴり元気のないソラの笑顔に返す言葉が見つからず、ただうつむくことしかできないフィリアの耳に足音が聞こえてくる。堂々とした足取りで食堂の扉を迷いなく開いたのは、壮年で顔に傷をもつ黒髪の男性だった。鋭い目つきは気安く人を寄せ付けない迫力があって、きっと結ばれた口元が彼の厳格さを引き立たせている。高級な貴金属等は身に着けていなかったが。きっと身分の高い人だろうなと、フィリアはなんとなくそう思った。
彼の後ろにはリクとテラが控えていた。リクは昨日の不調が嘘のように健やかな顔色をしている。
「あ、マスター・エラクゥス……」
男を見て、緊張した顔つきでソラが立った。それにエラクゥスと呼ばれた男は軽く目で頷きながら、フィリアたちの前にまでやってくる。厳つい鎧が鈍く光っている。座ったままのフィリアがおそるおそる見上げると、茶がかった黒目からの視線はまっすぐフィリアに注がれていた。
「そなたがフィリアだな」
有無を言わさぬ雰囲気に、フィリアは素直に「はい」と答えた。エラクゥスは愛想のない表情のまま話を進める。
「そなたはキーブレードを使うと聞いた。見せてくれぬか」
それにもフィリアは従おうとした。けれど、何度願っても一向に剣は手に現れない。
「あれ、出ない……」
「えぇっ!?」
大声を出したのはソラ。「キーブレードが出せなくなることなんてあるのか?」と呟いた。エラクゥスたちは何もいわない。フィリアは 何度か掌を握ったり開いたりしてみたが、手に光が集まることはなかった。
「あの時は、ちゃんと出せたのに」
「キーブレードが出せたのは確かなのだな」
「はい」
フィリアがしっかりエラクゥスと視線を合わせ頷くと、彼はすいと視線を窓の外に向けた。
「私はヴァンパイアに狙われているそなたを保護するためにテラを送った。そして、これから我らの本拠地でそなたを保護するつもりであったが……」
エラクゥスの声が少し低くなる。
「我々、人間がヴァンパイアに対抗できる力は限られている。彼奴らを倒すには特別な力が必要だが、選ばれる人間はあまりにも少ないのだ」
「マスター、まさか……!」
エラクゥスの言葉の先を察したらしいリクが声をあげた。けれど、エラクゥスは取り合わず話を続ける。
「フィリア。そなたには、これからキーブレード使いとして――ヴァンパイアハンターとなってもらいたい」
「――え?」
思ってもみなかった勧誘にフィリアはポカンとしてしまった。隣ではソラも同じ顔をしていたし、テラは目を見開き静かに驚いていた。
そんななか、ダンッ! と机にこぶしが叩きつけられる。フィリアのスープが振動でこぼれてしまったくらい、強い力で。
「待ってくれ! 俺は反対だ!」
「リク、なぜだ」
激昂しているリクに対し、エラクゥスの声は少しも動揺がなかった。リクはエラクゥスに詰め寄る勢いで声を張る。
「彼女にヴァンパイアハンターが務まるわけがない!」
リクの声の鋭さにフィリアは自分が悪であって、責められているような気持ちになった。彼はフィリアを激しい感情の色で染まった瞳でにらみつけてくる。
「理由を述べよ」
「彼女には戦闘経験がないし、そもそもやつらと戦う意思がもてない。ヴァンパイハンターには向いていません」
「おまえはまだキーブレードマスターではない。ゆえに彼女が適格かどうか、決める資格はない」
「俺たちは彼女をキーブレード使いにするために守ってきたのではありません。どうか、彼女をカイリのもとへ……」
「彼女はすでに剣に選ばれている――我らが闇を打ち倒すには、ひとりでも多くのキーブレード使いが必要だ」
淡々と述べられるエラクゥスの回答に、リクの拳がグッと強まる。
「俺は彼女を信用できない。ヴァンパイアに魅入られかけている人間などに背中をあずけられるわけがない」
「リク、いい過ぎだって!」
机から身を乗り出すようにして、ソラがリクをたしなめる。リクもそれを自覚しているのか、気まずげにうつむいた。
「そもそもさ、まずはフィリアの気持ちを聞かなくちゃ。向いてる、向いてないはそれからだろ」
「ソラのいう通りだ。マスター、俺もまずは彼女の意思の確認が先だと思います」
ソラの発言をテラが支持する。エラクゥスは頷いて再びフィリアの方へ向き直った。
「では訊こう。フィリアよ。そなたは資格がある。その力をもって闇と戦うか、どうか――」
「…………わたしは……」
周囲の視線をいっせいに浴びて、フィリアは虚ろに視線を彷徨わせる。箱庭を出てからこれまで、一時とて身も心も休まらず、愛しい人たちとは引き裂かれ、何もかもを失ってきた。もう何も残っていない、こんなからっぽの人間に、この男たちは何を望んでいるのだろうと他人事のように思った。すっかり疲れていて、強い意思で決断を下すなどおっくうだとも。今さら何を選んでも手遅れだ。数々の困難を乗り越えて迎えにきてくれたロクサスは、しかし自分を置いて去ってしまった。あの時、どうして彼についていけなかったのだろう――傍にいられないのなら、せめて、彼に殺されてしまえばよかったんだ。もうどうでもいい。投げやりな気持ちすらこみ上げてきて、フィリアはついそれに従おうとした。
――それで、いいの?
その時だ、フィリアの心に耳打ちする声があった。
あきらめていいの?
"あきらめる"?
そのささやきは波紋のように響きわたり、フィリアの思考が動きはじめる。
このまま安全なところへ連れていかれたら、もうロクサスに会えないだろう。けど、ヴァンパイアハンターになれば……戦っていくうちにまたロクサスと巡り合えるかもしれない。ヴァンパイアハンターになって有名になれば、ロクサスが会いに来てくれるかもしれない。ロクサスだけじゃない、ナミネにだって――大好きな人たちを取り戻せるかもしれない。
「なります」
その思考に至ったとき、迷いなく、リクの視線に怯むこともなく、フィリアの口から決意の言葉が飛び出した。
「私、ヴァンパイアハンターになります」
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