広がる並木道。去っていく後姿。黒いコート。落ち葉。皮の手袋。

「ん……」

 切ないほどに優しい音色で、フィリアはゆるゆると目を開いた。頬が濡れていて、泣いていたのだと理解する。
 随分と長い間、公園のベンチで眠っていたらしい。すっかり夜の帳が下りていて、フィリアの頭上にはたくさんの星と月が輝いていた。

「起きた? おはよー」

 音楽に相応しくない程に軽い口調で、隣にいた男が話しかけてくる。寝ぼけ眼を擦りながらフィリアがそちらに目をやると、逆立てた金髪と垂れ気味の瞳が印象的な青年が座っていた。

「……デミックス?」
「久しぶり。5年くらい?」
「まだそんなに経ってないよ。1年くらい」
「そーだっけ?」

 デミックスのけらけらとした笑い声とともに、美しいシタールの音が響いてくる。以前と変わらず、軽快な性格の割にシタールを操るその仕草は繊細だった。
 眠気に支配された思考でフィリアがぼんやりシタールを見つめていると、ふいに弦を弾いていた指が止まり、フィリアの目元に残っていた涙をそっと拭った。

「あ……」
「フィリア、眠りながら泣いてたよ」
「夢を見ていた気がするんだけど……忘れちゃった」
「なんだ。寝ながら俺の曲に感動してたのかと思ったのに」

 デミックスの手がシタールに戻ってゆく。フィリアは小さく笑みを零した。

「デミックスって、こういう曲も弾けるんだね。いつも楽しい曲ばかり聞いてたから、びっくり」
「あれはみんなで騒ぐ用。こっちは女の子を口説く用。使い分けてんだ」
「え……?」

 フィリアは驚いてデミックスの顔を見る。視線が交わると柔和に微笑む水色の瞳が、いつも施設で見ていた“お調子者のお兄さん”とは違うもののように感じられた。

「……なんちゃって。たまにはこういう曲もいいだろー?」

 再びへらりと笑い、デミックスが旋律を奏で始める。まるで星が降ってくるかのような神秘的な曲にフィリアはうっとり耳を傾けた。

「素敵な曲……」
「俺だって、その気になればこれくらいできるんだぜ」
「うん。見直した」
「えーっ、惚れ直したの方がいいな」
「惚れてないもの!」

 フィリアはくすくす笑い――ようやく気付く。

「そういえば、どうして私、デミックスとここにいるの? 確かソラと……」
「フィリアがあんな奴と一緒にいるから驚いたよ。でも良かった、助けられて」
「私を、助けた?」
「あいつら、怖いンだぜ? 人の心を取り出して壊すんだから」

 デミックスが大げさに肩をすくませる。

「大方、あいつらに無理矢理連れて回されているんだろ?」
「……ロクサスが私を狙っているからって」
「ふぅん。ロクサスのこと、嫌いになった?」

 フィリアは髪が乱れる勢いで、首を横にぶんぶん振った。

「嫌いになんて……! 本当は、ヴァンパイアがいることすら……みんなが施設の子を喰べていたなんて、全部、全部、嘘じゃないの?」
「嘘――ねぇ」

 シタールの弦が震え鳴る。フィリアは拳をぎゅうと握り、デミックスから視線を離した。

「…………デミックスも、ヴァンパイアなの?」
「まーな。証明することだってできるよ」

 デミックスの指が止まり、シタールが水の泡になって消える。

「証、明?」
「ここでフィリアの血を吸うんだよ。すごくヴァンパイアらしいだろ?」

 言い終わるが早いか、デミックスがフィリアの背後にある手すりを掴んだ。ベンチとデミックスに挟まれて、フィリアは閉じ込められてしまう。

「あ――」
「安心してよ。最初はちょっと痛いかもしれないけど、すぐに気持ちよくなるからさ」

 怪しく笑いながらデミックスが迫ってくる。それに本能的な恐怖を感じ、フィリアは慌てて腕を突っぱねてデミックスの胸を押した。

「やだ、デミックス……やめてっ」
「どうして? 俺たちがヴァンパイアだって信じられないんだろ?」
「だからって……こんな」
「これ以外の方法だと、俺が消えちゃうんだもん」

 じりじりと迫りながら、デミックスが笑う。その口から二本の鋭い牙がすらりと覗いた。

「フィリアのこと、初めて会った時からかわいいなって思ってたけど、ますます綺麗になってるし……すげぇうまそう」
「う……んっ」

 ぬるい息が首にふきかけられ、フィリアはきつく目を瞑った。針のように尖った感触がチクリと首に添えられる。

『ヴァンパイアに血を吸われた人間は、大抵が死に至る』

「いやっ!!」
「で……ッ」

 勢い良く振り上げたフィリアの拳がデミックスの顎を直撃する。拘束が緩んだのを逃さずに、フィリアは闇の中を駆け出した。




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