旅立ちの地。
 今日も訓練を終えたヴェントゥスが山頂へでも遊びに行こうかと外へ出ると、前庭の階段の隅っこでフィリアが暗い表情でうつむいているのを見つけた。

「フィリア、どうしたの?」

 驚いて声をかけながら、ヴェントゥスはフィリアの隣へ腰かける。そういえば、フィリアは先ほどマスター・エラクゥスに何か言われていた。会話の内容こそ聞こえないもののお説教されている雰囲気ではなかったが……思い出しながらヴェントゥスがフィリアの首に巻き付いた鎧の飾りを眺めていると、フィリアはやっと半べそな声でヴェントゥスを呼び、顔を上げた。
 内緒にしてね、と前置きして弱々しく打ち明けられる。

「あのね……私、病気なんだって」
「えっ!」
「大人になるほど、重症化していくんだって」
「そんな。どうにかならないのか?」
「体質だから治ることはないんだって。体が苦しくなることがあったら、このお薬を飲みなさいって、マスターが……」

 フィリアの首には紐で結ばれた小さな袋があって、そこに白い錠剤がいくつか入っているようだった。

「フィリアが苦しくなったら、これを飲ませればいいんだな」

 己の病気に怯えるフィリアを見て、ヴェントゥスはいつでも助けてあげられるよう気をつけようと心に決めた。





 それから数か月後。フィリアは特に苦しむこともなく飛んだり跳ねたりまったく元気に暮らしていた。本当に病気なのかしら。フィリアの首から下げられた薬袋は全く重さが変わっていなかった。
 そんなとある夜のこと。今夜も星空を見上げてヴェントゥスは外の世界へ思いをはせる。

「俺も早く外の世界に行きたいなぁ。テラとアクアはいつも『外の世界の常識を学ばないとダメだ』って言うけど……」

 この世界と何が違うというのだろう。マスターエラクゥスは「近々、話してやろう」と言っていたが、近々とはいつになるのか。親友二人はその内容の話になると何やら気まずそうに黙ってしまうし……ブツブツ考えながらヴェントゥスが消灯しようとした時だ。部屋のドアが小さくノックされた。

「ヴェン、起きてる……?」

 フィリアの声だ。ヴェントゥスは大慌てでドアを開けると、枕を抱きしめた上目遣いのフィリアが待っていた。寝る寸前の湯上り状態。パジャマ姿。圧倒的シャンプーの甘い香りにくらっとくる。

「こんな時間に、何かあったの?」
「その……今晩、一緒に寝てもいい?」

 ヴェントゥスは自分の顔が熱くなるのが分かった。ヴェントゥスもフィリアも、もう誰かと一緒に寝る年ではない。決して嫌ではないが、しかし快く歓迎するにも照れくさい。ヴェントゥスは緊張しながらフィリアへ理由を訊ねた。フィリアは枕を抱く力を強めながらポソポソ答える。

「最近、ずっと怖い夢を見てよく眠れないんだ。テラやアクアじゃ部屋に追い返されちゃうから、ヴェンにしか頼めないの」

 お願いと涙目で頼みこまれてつっぱねられる性格ではない。ヴェントゥスは複雑極まる感情を抱きながらも、結局折れてフィリアの入室を許可してしまった。

「わかった。いいよ」
「ありがとう!」

 フィリアはパっと笑顔を見せて仔犬のようにヴェントゥスのベッドに飛び込んでいった。幼い頃と違い、ひとつのベッドに寝るには詰めるか身を縮めなくてはならない。
 ルンルンと己の枕を設置してフィリアがベッドに寝転がった。ヴェントゥスは小さくため息を吐き、あまりフィリアの方を見ないようにその横に並ぶ。しかし隣から感じる視線。至近距離からの濃い香りになんだかたまらなくなる。
 勢いよく上体を起こすヴェントゥスに、原因の自覚がないフィリアは目を丸くさせていたが、ヴェントゥスはとにかくいたたまれなくなってしまって「ノドが乾いたから水を飲んでくる!」と言い訳して部屋を飛び出した。

 城の静けさと冷めた気温はヴェントゥスの湯だった思考を落ち着かせてくれた。数分後、「添い寝するだけだ」とブツブツ唱えながらやっとヴェントゥスが自室へ戻ってくると、なんとフィリアは呑気に眠ってしまっていた。ヴェントゥスは良かったような残念のような複雑な気持ちで、無防備な寝顔をしげしげ眺める。ふっくらとした唇から、いつも私服では隠されている、薬袋の紐すらかかっていない白いうなじに目が吸い寄せられた。なんて細くて、柔らかそうで、頼りない。
 ゆらっと手が伸びる。髪をかきわけるとうなじが更に露わになる。甘い香りが強くなった気がする。噛みつきたい衝動にゴクッと生唾を飲み込んだとき、ハッと我を取り戻した。

「あれ……俺、何を考えてるんだ」

 頭をふって、ヴェントゥスはフィリアに背を向けて小さく「おやすみ」と呟き目を閉じた。



 翌朝。いつもよりあたたかい布団。柔い感触。ヴェントゥスはパチッと目を開いた。こちらに背を向けて寝るフィリアを抱きしめる形で眠っていたようだ。眼前──唇が触れそうな距離にフィリアのうなじがあった。

「うわっ……!?」

 フィリアが目を覚ます前に起きて良かったと、心底ホッとしながらヴェントゥスはそっと手をほどいた。しかしその感触で起きたのか、フィリアがむずがる赤子のようにむにゃむにゃ目覚める。

「ヴェン、おはよぉ……」

 ぼさぼさの頭で目を擦りながらあくびしている。ヴェントゥスは素早くベッドから脱出して平静を装って挨拶を返した。

「よく眠れた?」

 何気なく聞いただけだったが、フィリアがとろんと微笑んだのでドキリとする。

「うん、シーツからヴェンの匂いがして、すごく安心できたよ」
「そう……」

 なんとも言えないむずがゆさに耐えながらも、ヴェントゥスは添い寝はこれっきりだろうと、この時は考えていた。



 そしてその夜。
 枕を持ったフィリアが扉の前に立っていた。

「今夜も一緒に眠ってもいい?」

 こちらの気も知らず、またあざといくらいに可愛らしく上目遣いで小首を傾げてくる。ヴェントゥスは本当に困った。家族みたいな存在だけれどフィリアを妹と割り切っていないし、そう思おうとしたことすらない。

「お願い」

 ヴェントゥスの忍耐力と欲望がせめぎ合うが、数秒悩み、結局彼はまた折れてフィリアを部屋に招き入れてしまった。
 喜びながらヴェントゥスの毛布を抱きしめるフィリアの姿を見ていると、ヴェントゥスの口元が疼く。柔らかなものを強く噛みたい気分がこみ上げてくる。

「また水飲んでくるから、先に寝てて」
「夜に飲むと、夜中にトイレ行きたくなっちゃうよ?」

 フィリアの母親みたいな発言には答えず、ヴェントゥスは今夜も数分間こっそり廊下で頭を冷やしてきた。そして、戻ってきた部屋の扉を開けようとして異変に気づく。

「なんだ? すごく甘い匂いがする……」

 焼きたての菓子よりも濃厚で甘ったるい匂いが部屋の中から流れてくる。フィリアのイタズラだろうか? 意味も分からずヴェントゥスは無策のまま扉を開け、更に濃い匂いに包まれた。あまりの刺激に目がくらみそうになる。

「ヴェン……」

 息もたえだえなフィリアの声がしてヴェントゥスが視線を下げると、フィリアは床に突っ伏していた。仰天して駆け寄る。

「フィリア、どうしたんだ。大丈夫か?」
「分かんない。急に体が熱くなってきて、胸が苦しい」

 どうやらこの甘い匂いはフィリアから発生しているようだった。ヴェントゥスにとって不思議なことに、これほど強く香っているというのに不快に思わず、むしろ好感をもっている。意識がふわふわして心地がよい。

「ヴェン、つらいよ。たすけてぇ……」

 ひっく、えぐ、フィリアのすすり泣きが聞こえてきて、ヴェントゥスはかわいそうにと思いながらも、それ以上は頭が回らず、足はこの場から離れようとしなかった。手を伸ばし、哀れに涙を流す頬をなぞる。それだけでフィリアの口から加虐心をくすぐるような悲鳴が漏れた。ヴェントゥスの中で理性で抑えていたものの堰がきれる。

「フィリア、こっち向いて」

 ヴェントゥスは、望むままにフィリアを抱きしめて口づけた。幾度か口を吸うと、教わってもいないのに舌を入れて快感を探るようにしつこく絡めた。与える刺激にフィリアがビクビク震えてるのが嬉しくて、更に強く抱きしめる。
 名残惜しくも一度口を離すと、フィリアの顔は涙と涎でまみれていたが、トロンと蕩けてヴェントゥスが驚くほど艶めいた表情をしていた。嫌がる素振りは全くなく、戸惑いながらも期待しているような瞳がヴェントゥスの更なる欲を煽る。このような表情を見られるのは自分だけであればいいのにと考えたヴェントゥスの視線が白い首に吸い寄せられた。

「フィリアかわいい。すごく──」

 噛みつきたい。
 フィリアの首元に顔を埋め、首筋へ何度もキスする。フィリアは甘ったるい嬌声を堪えることに精一杯のようで、抵抗すらされないヴェントゥスはついに首の裏までたどり着いた。フィリアの肩が揺れる。

「あ、そこは……ひぅ!」

 普段、鎧で隠されている箇所を舐めて、大きく口を開けて噛みつく。普段なら誰かを傷つけること、更に跡の残る傷をつけるなどとんでもないことだと思うはずのヴェントゥスは、この時ばかりはケアルをかけても跡が残るようにと望み強く噛んだ。

「いたっ、痛いよヴェン」

 またフィリアがべそべそ泣き出したことで、ヴェントゥスにちょっと正気が戻ってくる。そっと歯をぬくと、白い肌に血が滲んでいた。

「ご、ごめん」

 思わず謝罪が口をついたが、すまないと思う以上に喜ばしさがヴェントゥスの胸を満たした。己の知らない一面がいきなり現れて困惑するも、“もっと欲しい”という気持ちが溢れてくる。
 ヴェントゥスはフィリアを抱き上げ、ベッドの上に寝かせた。力が入らないようでくったりした様子のフィリアは、ヴェントゥスが上にのしかかってきたことでまた表情を変える。

「ヴェン」
「ごめん。俺、変だ。こんなことダメだって分かっているのに、やめたくないし、やめられない」
「う……わ、私……」

 ヴェントゥスは自分の寝巻の留め具を外し、胸元あたりまで肌を露わにした。ヴェントゥスを見上げてフィリアがこくっと喉を鳴らす。この先何があり、何をされるのか理解している目だとヴェントゥスは感じ取った時、フィリアがそっと視線をそらす。

「私も変なの。どうしてかな……ヴェンにもっと触って欲しいって思ってる」

 ヴェントゥスが再びキスをすると、フィリアの腕が首に回ってくる。今度はフィリアからも舌を絡めてきて、不慣れながらも互いに求めあった。







 

「それで、その──本当にヴェンとはたくさんキスしただけで終わったの?」

 翌朝、洗面台にてフィリアの首裏にくっきりついた歯型に気づいたアクアが蒼白顔で問いただしてきたため、フィリアは昨晩あったことを素直にすっかり話してしまった。いまは深刻そうな表情で黙っているアクアに、フィリアはきっととても悪いことをしてしまったのだと落ち込んだ。

「うん。その、ごめんなさい……」

 互いに好意を伝え合った恋人でもないのにこんな行為をしてしまったのは、今振り返っても不思議だとフィリアは思う。突然体調がおかしくなって、体が熱くもどかしくなって、ヴェントゥスに触れてもらうと気持ちよくてもっと触れてほしくなった。ヴェントゥスも変だった。普段あんなに優しいヴェントゥスが、首を思い切り噛んできた。ケアルをかけてもまだ痛む気がする。それでもちょっと怖かったな程度なもので、嫌だったという感情を大幅に上回る多幸感に満たされている。
 フィリアがうつむいていると、アクアが小さくため息を吐いた。

「いいえ、謝るのは私たちのほう。まだ早い、まだ早いって、あなたたちへの説明を先延ばしにしていたから……」
「何の説明?」
「後で。ヴェントゥスと一緒にね」

 フィリアがアクアを見上げると、彼女はごめんねと微笑んで、首の後ろが痛むならポーションも使いましょうと優しく頭を撫でられたので、フィリアはひとまず安心した。



「あるふぁ、べーた、おめが……」
「そんなものがあるなんて、知らなかった」

 世の中の性別は男と女の二つではないらしい。まず大まかな三つの分け目があり、そこから男女の性別があると──。
 フィリアは前庭で年上三人の赤かったり苦かったりする顔を思い出しながら、隣に座るヴェントゥスを見る。アルファのヴェントゥス。オメガのフィリア。オメガはうなじを噛んだアルファと意志を飛び越えた強い絆で結ばれてしまうらしい。
 ヴェントゥスもフィリアを見て、そっと首に手を伸ばしてきた。もう鎧はついていない。腫れ物に触れるような手つきで傷跡を撫でられる。

「今も痛い?」
「もう平気だよ」

 フィリアはヴェントゥスの手を掴んで、掌に頬ずりする。
 全く知らなかった知識だが、実感はある。あの時までは大好きな友だちだと思っていた。けれど今は、側にいるだけで心がストンと落ち着くのだ。

「ヴェンの側にいると、すごく安心する」
「俺も」

 抱きしめてきたので、フィリアは素直に身を預ける。
 マスター・エラクゥスからもらった薬は、オメガのヒートを抑えるためのものだったと説明を受けた。オメガのヒートに抗えるアルファはいないとも。フィリアは自分の不注意さを反省したが、うなじを噛まれた以上もうどうしようもできない。

「ヴェンのオメガ、私でごめんね」

 呟きをとらえたヴェントゥスが、抱きしめる腕はそのままに、身の密着のみ放してフィリアの顔を覗き込んでくる。

「今回のこと、全部私のせいだから」
「俺はオメガじゃなくても、フィリアがよかった!」

 ヴェントゥスは裏表のない性格で、お世辞を言える性格ではない。本当にそう思っているのだろうとフィリアは分かっていても、もしフィリアがベータで、ヒートした他のオメガが目の前にいたら、ヴェントゥスはそれでも選んでくれたのだろうかと想像してしまう。
 意味も救いもない「もし」の想像にフィリアが陥り始めて行くのを察したのか、ヴェントゥスが触れるだけのキスをしてきた。フィリアは驚いてパチパチまばたきしながら立ち上がるヴェントゥスを見上げる。

「フィリアが不安なら、俺、信じてもらえるようにがんばるよ」
「え……?」

 どうやってと言外にフィリアが問うと、ヴェントゥスは強い輝きを宿した瞳で微笑んだ。

「覚悟してて」

 いつもと変わらない笑顔にフィリアが見惚れていると「ほら、山頂に遊びに行こう」とヴェントゥスが誘ってくる。一緒に走りまわっているうちに、フィリアは自然と笑顔になりヴェントゥスとの時間を楽しんだ。



 その日から、ヴェントゥスが夜の行為について猛勉強しはじめたのことをフィリアはまだ知らない。
 



R.3.9.25




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