食堂に一歩足を踏み入れた途端、むせ返るような甘い香りに顔を顰めた。
「なんだ、これは……」
そこには、山のような空箱に包み紙、リボンにカード。どこぞの世界の、プレゼントを配る老人の工場のような有様に、俺は呆然としてしまった。
「あれ、ヴァニタス?」
アクアより若干幼い女の声。そちらを向けば、目的であるフィリアがエプロン姿でこちらを見ていた。新鮮な姿に思わず見とれていると、フィリアが不満げに頬を膨らます。
「もう。入っちゃダメって扉に張り紙してあったでしょ?」
「闇の回廊から来たからな。そんなもの見ていない」
「そっか……えっと、何か用?」
火にかけた鍋に視線を戻しながら、フィリアが忙しそうに手を動かしはじめる。その側には型に流されたチョコやら刻まれたチョコやらが、所狭しと置かれている。
「何をしているんだ?」
「何って、バレンタインデーの準備だよ」
また、バレンタインデーか。しかし、テラとヴェントゥスが言っていたものと違う。
「バレンタインデーって、女の子がお世話になった人たちにチョコをあげる日なんだって。昨日、ミニー王妃が言っていたの」
「お世話になった人たち……だと?」
オウム返しに問えば、フィリアは俺に向かってにっこりと微笑んだ。
「うん。えーと、まずは小人さんたちに、白雪姫でしょ……シンデラにジャックに、ルシファーに……オーロラ姫に、妖精さんたち、マレフィセント、マーリンさまに、プーとティガーと……お城の門番さんたちに、スクルージおじさんに……」
指を折りながら、フィリアが次々とあの旅で出会った者たちの名を言い連ねてゆく。30を越えた辺りで、俺は数えるのをやめた。
「あと、ピーターに、ティンクに、フォクシーとカビー、フック船長とミスター・スミーに……あっ、クロコダイルって、チョコ食べられるのかな?」
ワニの心配をするならば、ネコとネズミだってだめだろう……と、つっこむべきはそこではない。
「まさかおまえ、全員に配る気なのか?」
「うん。そのつもり、だったんだけど……」
途端に、フィリアの表情が曇ってしまう。どうやら、問題は十分に理解しているようだ。
「バレンタインとやらは明日なんだろ。この数を世界じゅうになんて、一人で間に合うはずがない」
今は午後。配る予定のチョコすらまだ。その上包装やカードまで準備するとしたら、徹夜しても無理だろう。
フィリアがしょんぼりと下を向き、大きなため息をひとつ吐いた。
「材料の準備に手こずっちゃって……やっぱり、もうだめなのかな……」
「……」
むかむかとした気持ちがこみ上げてきて、目を閉じた。ため息をつきたいのは、せっかく会えたのに相手にされていない自分の方だ。
「仕方ないな……俺も手伝ってやる」
「え? いいの……!?」
「ああ」
フィリアの表情がパッと明るくなる。惚れた女が困っているのを放っておくわけにもいかないし、エラクゥスたちに見つかっても、フィリアの側にいる大義名分にだろう。
「ありがとう、ヴァニタス!」
「礼を言うには早いだろ。さっさと終わらせるぞ」
「うん! じゃあ、まずはチョコを刻む作業をお願い」
「こんなもの、すぐに……」
「き、キーブレードじゃだめだよ! ちゃんと包丁で!」
こうして俺は、甘ったるい部屋の中で、甘ったるいお菓子作りを始めることになったのだった。
チョコを配り終えたのは、バレンタインの夕方だった。ネバーランドと呼ばれる世界の崖で、チョコを配りに行ったフィリアを待ちながら、俺は夕日を眺めていた。
湯煎のせいで火傷をしたり、包丁で指を傷つけたり……慣れない作業のせいで戦うよりもくたびれた。明日には、ゼアノートに頼まれた仕事がある。自由な時間は、もうあまり残されていなかった。
「ヴァニタス、お待たせ!」
手に軽くなった袋を持って、チョコを配り終えたフィリアが小走りで駆けてくる。
「終わったのか」
「うん。みんなとっても喜んでくれたよ! ヴァニタスのおかげ。闇の回廊まで出してくれて、本当にありがとうね」
フィリアが満面の笑みを向けてくる。それを見ただけで、先ほどまでの疲れが消えた気がした。今が夕方でよかったと思いながら、俺は熱を持った顔をフィリアから背けた。
「もう日が落ちる。戻るぞ」
「あ、待って」
旅立ちの地へ闇の回廊を開こうとしたとき、フィリアが呼び止めて袋を漁る。まだ配り残しがあったのか? 振り向くと、綺麗に飾られた箱が目の前に差し出された。
「はい、ヴァニタスの分」
「俺の……?」
「うん。手伝ってくれたお礼も兼ねて」
フィリアが両手で持った箱を俺に渡す。黒い箱に、赤いリボン。これは、俺が手伝ったものではない。
光沢があるリボンを解き箱を開くと、丸いチョコが綺麗に並んでいた。確か、トリュフというものだったか。
「甘さ、控え目にしてみたんだ。口に合えばいいんだけど……」
もじもじとするフィリアを見ながら、ふと、一つの考えが浮かんだ。これを利用しない手はない。俺はフィリアの前に箱を突き出した。
「あれ、気に入らなかった?」
「そうじゃない。手伝ってやった礼なら、今度はおまえが俺を手伝え」
「えっ? 手伝うって、何を……?」
「……このチョコが、箱から俺の口に入るまでを……手伝え」
「……」
フィリアが俺をポカンと見上げる。伝えた達成感と羞恥に耐える数秒間後、フィリアの顔が夕日の中でもわかるくらい真っ赤になった。
「うん、いいよ」
小さい声だったが、しっかりと聞こえた承諾の言葉。「よし!」と心の中で、ヴェントゥスがよくしているガッツポーズする。
「はい、あーん」
掛け声は恥ずかしすぎるが、フィリアが箱からチョコを一掴み、そっと口元へ差し出してくるのを迷わず食べた。すぐに苦味を含んだ甘い味が口に広がる――悪くない。
満足しながらチョコを飲み込むと、フィリアが不安そうに訊ねてきた。
「味、どうかな?」
「まぁまぁだな。なんなら、お前も確かめてみるか?」
今度は、俺が箱から一つを摘んでフィリアの口の前に持っていく。すると、フィリアが首を横に振った。
「わっ、私は味見したし……それはヴァニタスの分だよ?」
「いいから、早く口を開けろ。溶ける」
急かせば、フィリアが慌てて口を開ける。反射的なのか、恥ずかしさを隠すためなのか、目は閉じている。その表情に、また邪な考え浮かぶ。目の前に無防備なフィリアの顔。邪魔者はなし――これは、チャンスなんじゃないか?
「ヴァニタス?……まだ?」
チョコが口に放り込まれないことに、フィリアが目を閉じたまま催促する。まだ、まだ目を開くな。そう思いながら、チョコではなく己の顔をその唇に近づけてゆく。あと10センチ、5センチ……。
「フィリアー!」
「!!」
あと2センチ、というときにヴェントゥスの声が振ってくる。ギクリとしてフィリアから離れると、空に開かれた異空の回廊から、ヴェントゥスが現れた。思わず舌打ちしてしまう。いつもこうやってヴェントゥスは無作為に俺の邪魔をする。
「ヴェントゥス!」
「探したよ! 見つかってよかった。あ、ヴァニタスもいたんだな」
「……フン」
半身をおまけの扱いか……不満を隠さずに睨みつけるが、ヴェントゥスはまるで気づいていない。そのまま持っていた箱を大事そうに抱えながら、俺たちの側へやってきた。
「あ、あのさ……今日はバレンタインデーだろ? フィリアにアイス、作ってきたんだ」
そう言ってヴェントゥスは、ぬけぬけと俺の前でフィリアに箱を差し出した。
「私に? ありがとう!――わぁ、すごい……」
フィリアが箱を開けて感嘆をもらす。横目でそれを見れば、どれだけプライズポットを叩いたのか想像もしたくないほどに豪華なアイスがそこにあった。
「私も、ヴェンにチョコあげるね」
「え、フィリアも?」
「うん」
フィリアが、袋に入っていた最後の一箱をヴェントゥスに手渡す。ヴェントゥスからかなりの喜びを感じるが――俺は二人にばれないように密かに笑う。
「開けてもいい?」
「もちろん」
ヴェントゥスが箱を開ける。途端に飛び出すマンドレイク。驚いたヴェントゥスが思わずその場にしりもちをつき、箱を落とした。
「うわっ!?」
「ヴェン、大丈夫!?」
急いでフィリアがヴェントゥスに駆け寄る。俺は堪えきれず、遂に声を上げて笑い出した。
「ヴァニタス、おまえの仕業かっ!?」
「おまえにフィリアのチョコはもったいない――それは、俺からの贈り物だ!」
「マインドドレイクって、確か絶望じゃあ……」
フィリアが、地面で淀んだオーラを放つマンドレイクを見つめながら小さく呟く。
「俺の、フィリアからのチョコ……ヴァニタス……!」
ヴェントゥスが立ち上がり、キーブレードを俺に向けた。絶望ではなく怒りと悔しさの感情が伝わってくる。俺も、キーブレードを握り締めた。
「絶望を贈るっていうのは、片羽の二番煎じだぞ!」
「うるさい! χブレードになれ!」
「二人とも、やめ――あぁぁ、どうしてこんなことに……!」
フィリアの静止を聞き流し、日が沈みかけた崖で、地を割くような戦いが始まった。後日、ヴェントゥスたちからバラやら服やらアイスやらが届いたが、俺のチョコはヴェントゥスに全て食べられてしまった。
\やるやるやる〜/
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