生命の象徴である水すら行き渡っていない大地でひとり、いつものようにヴェントゥスを感じる。暗闇の中を突き進み、深い底をくぐり抜けた先にある淡い光。決して触れることはできないが、側に寄れば気持ちが波紋するように伝わってくる。
ヴェントゥスがいるのは、城の中でも前庭でもなく、山道の滝だった。青い空が広がり、緑が溢れ、何もかもが輝いている。
「今日はね、アクアからいいものをもらったの」
ヴェントゥスと手を繋いで歩くフィリアが、もう片方の手に大事そうに持った白い包みを見せてくる。「何だと思う?」など訊ねられても、今のこいつが答えられるわけがない。「わからない」としか言葉を浮かべないこいつの代わり、という気持ちはさらさらないが、届かないとわかりきった上で「もったいつけるな」とか「見せるならさっさと見せろ」とか思い返す。
フィリアは袋の口を僅かに開けてヴェントゥスに中を覗くよう指示をした。視界に入るのは、薄茶色の小さな丸い個体の集まり。食欲を刺激する甘い匂いを放っている。
「クッキーっていうお菓子だよ。昨日の夜に作ったんだって。三時になったら食べようね」
こくり、と頷く。その思考に「どんな味なのか」とか「楽しみだ」などの広がりはないが「クッキー」、「三時」、「食べる」といった言葉のカケラが記憶として積もってゆく。
袋は側にあった石の机の上に置かれ、ヴェントゥスはフィリアに誘われるまま水の中に手足を入れたり、飛んでいる鳥たちを観察したり、リングを回したりして遊びはじめる。
――うっとおしい。
チカチカ目を眩ます太陽に、風に葉を揺らす木々、跳ねる水しぶき。
なんて忌まわしい世界なのか。豊かで、穏やかで、優しく、あたたかいものばかりで溢れている――。
「ヴェントゥス」
微笑みながら何度も名を呼んでくるフィリア。何も反応を返さないこいつと居て、なぜそんな顔ができる。
「ヴェントゥス」
うるさい。呼ぶな。笑いかけるな。
またひとつの物語を読み終える。
どうでもいい知識ばかりだ。本当に、ただの暇つぶし。こんなことをしているなら、他のキーブレード使いの修行を見ていた方がまだ退屈が紛れるだろう。
「なんだか、眠くなってきちゃった……」
表紙を閉じながら、フィリアが大きくあくびをした。よくも飽きずに全ての本を音読するものだ。ヴェントゥスはその内容を記憶として溜め込んでいっているが、全てを思い出す日など来ないだろうに。
「ヴェン、ちょっとお昼寝しよう」
言って、フィリアは自分のベッドに転がった。ヴェントゥスは動かず、ただ指示を待っている。相変わらず発言はないが自分にはわかる。「まだ眠くない」、「もっと本が読みたい」と漠然とながらフィリアの行動を残念に感じている。不快だが、珍しく自分も同じ気持ちだった。
「ヴェン、こっち」
年齢と身長の割に巨大なベッドはフィリアとヴェントゥスが横たわってもなお余る。フィリアに手を引かれるまま、ヴェントゥスは大人しくその隣に横になりフィリアの方を見た。ただの天井より、フィリアとその上にある窓の方が見たいらしい。シーツに散らばる髪を見つめていると、フィリアがそっと顔をほころばせた。
「おやすみ……ヴェン」
それきり瞳が閉じられて、少しもしないうちに規則正しい寝息がし始める。
雨音はすれど、身動きによる衣擦れの音すらはばかられるほどの静けさに包まれた。しばらくフィリアの寝顔を眺めていたヴェントゥスも、うとうと瞼を落としてゆく。
不必要な眠りは嫌いだ。毎回、同じ夢を見るのだ。安らかな闇の中から真っ白な光の中へ無理矢理引きずり出される、恐怖しかない不気味な夢を。
ヴェントゥスが目を閉じきると、もう感じられるのは音のみで、自分がいる世界と、風と雨の音のくらいしか差がなくなった。けれど、他人の匂いと寝息、ぬくもりが近くにある――それは、なぜかいつもより気を鎮めさせた。
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