フィリアと別れてから、アクアはテラとヴェントゥスと共に中庭で手合わせをしていた。
休憩中、テラが継承の儀式の真似をしてヴェントゥスに木剣を差出したとき。いきなりテラが驚いた顔をして「笑った」と呟いた。
「アクア、今ヴェンが笑ったぞ!」
「えっ!?」
急いでこちらに背を向けていたヴェントゥスの顔を覗き込んだが、無表情……。
「テラ、アクア、ヴェン!」
城の入り口からフィリアが呼ぶ声がした。フィリアが嬉しそうにこちらに向かって走ってきている。どうやら、エラクゥスと上手く話せたらしい。
「フィリア。今、ヴェンが笑ったんだ」
「本当っ!?」
テラが教えると、フィリアは目をパチクリして無表情のヴェントゥスに顔を寄せた。
「ねぇヴェン、笑って!」
「……」
「ちょっとでいいの、おねがい」
「……ぅ」
フィリアがあまりにも頼みこむものだから、ヴェントゥスが戸惑ってしまったようだ。助けを求めるようにこちらへ視線を投げかけてくる。
自分も彼の笑顔が見てみたかったが――仕方がない。
「フィリア、ヴェントゥスが困ってるよ」
「だって……ヴェンの笑顔、私も見たい!」
「ヴェンの笑顔を見たのはテラだけよ。私もまだ見ていないの」
「いいなぁ、テラ……」
「フィリアも、ヴェンを笑わせばいい」
「どうやって?……くすぐるとか?」
ヴェントゥスがギクリと体を強張らせたので、アクアは「だめよ」と苦笑する。
「慌てなくても、これからたくさん笑ってくれるようになるわ」
フィリアは残念そうな顔をしていたが、頷くとまっすぐ見上げてきた。
「私、テラよりたくさんヴェンに笑ってもらえるようにがんばる!」
「そう、ね……」
拳を握って意気込む姿は微笑ましいが、少し何かが違う気がする。
その一方で、すっかりライバル視されてしまったテラは、面白そうに笑っていた。まったく、もう……。
「そういえばフィリア、マスターとお話できた?」
「うん! 今度から“魔法の修行のみ”だけど、参加していいって!」
「そうか!」
「よかったね!」
フィリアの様子から察しはしていたが、ほっとした。
「これから、部屋に魔法書を置くために、本棚を整理しないと――あっ!」
言いかけて、突然フィリアが大声を出す。
「どうしたの?」
「忘れてた……っ! マスターが三人を呼んでたの」
「ああ――わかったわ」
ヴェントゥスの笑顔ですっかり忘れていたが、いつもなら午後の修行を始める時刻。
本棚の片付けがあるフィリアと別れ、二人と共にアクアは大広間へ駆けこんだ。
★ ★ ★
夕日が落ち、外はすっかり薄暗くなっていた。
フィリアは、自室の本を全て書庫に運び終えた。
「んっしょ、っと」
古い机に本を置くと軋む音がした。踏み台を引きずってきて、空いている棚に本を一冊ずつ納めてゆく。
「わぁ、懐かしいな……」
愛読していた表紙を見つけついつい読みたくなってしまう。しかし、そんなことをしていたら夕飯までに間に合わない。
「あ、この本」
次に手を止めたのは、青い表紙。
我慢できず「ちょっとだけ……」とページを捲ろうとしたとき、いきなり書庫の扉が開いた。
「ひゃっ、あ、わ――きゃあ!」
驚いたせいで踏み台から足を滑らせてしまった。大した高さではなかったが、本棚にぶつけた背中がジンジンと痛む。
「いったた……」
「フィリア、大丈夫か?」
「…………え?」
この声は……。
見上げると、ヴェントゥスが自分に手を差し出していた。
「ヴェン……?」
「立てる?」
「あ、うん……」
差し出されたヴェントゥスの手を借りて立ち上がる。
ぶつけた箇所はまだ痛みを訴えていたが、ヴェントゥスの様子が先ほどまでとかなり違っていたことに意識を取られ、気にならなかった。
じっと見つめていると、ヴェントゥスが首をひねった。
「俺の顔に何かついてる?」
ヴェントゥスがいつもどおりといった様子で訊いてくるので、驚いている自分のほうがおかしいかと錯覚しそうだ。
初めて会ったとき、倒れる前とも全く違う……きっとこれが本当のヴェントゥスなのだろう。
どうしていきなり、こんなにも……テラがヴェントゥスを笑わせたおかげなのだろうか?
「……なんでもない。ヴェンも書庫に用があったの?」
「今日の修行が終わったから、フィリアの手伝いに来たんだ」
「えっ、もうそんな時間?」
書庫の壁時計を見るともう午後の六時を過ぎていた。本の整理に夢中になって気づかなかった。
「なぁフィリア、俺は何をすればいい?」
「あ、えぇと……ここの本をあそこの棚にしまってもらえる?」
「わかった」
数冊積みあがった書庫の本を指すと、ヴェントゥスが頷いてそれを棚まで運び始めた。……今まで頷くだけしか反応を返さなかったヴェントゥスが、ちゃんと返事をしてくれる。胸の奥からむずむずと嬉しさがこみ上げてくる。
「……ありがとう」
「いいよ。早く終わらせよう」
「……あ……」
礼を言うとヴェントゥスが笑ってくれた。ずっと見たかったヴェントゥスの笑顔。誰かの笑顔がこんなに嬉しいと感じるのは生まれて初めてかもしれない。
少しの間本の整理を続けていると、ヴェントゥスの背にテラの木剣があることに気がついた。
「ヴェン。それ、テラの?」
「ん? ああ。さっき修行が終わったときにくれたんだ」
嬉しそうに答えるヴェントゥスを見ると、テラが少し、いや、すごく羨ましい。
フィリアがじっと木剣を見つめていると、ヴェントゥスが苦笑した。
「これは俺のだから、あげないよ?」
「そ、そういう意味で見てたんじゃないの!……テラよりも、がんばろうっと!」
「?」
キョトンとするヴェントゥスに背を向けて、フィリアは拳を握り締めた。
★ ★ ★
まるで白と黒の絵に彩を点したかのように。ヴェントゥスの心はあの瞬間から急激に変わっていった。
ヴァニタスは無防備に地面に転がってぼんやりと空を見上げていた。
空に向かってなんとなく手を伸ばしてみたが、届くはずのない手は何も掴まぬまま拳を作る。
今までは、ただヴェントゥスが見聞きした情報だけが伝わってきた。しかし、今はそれにヴェントゥスの意思が副えられている。
「…………心が……癒える……」
初めてヴェントゥスの心を感じたときにゼアノートが言っていた言葉だ。ゼアノートはこのことを見越していたのだろうか? だが、このヴェントゥスの様子はまるで――。
「…………そんなこと、あるはずがない……」
その思考を振り払うようにヴァニタスは素早く上体を起こした。
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