本格的に梅雨になったようだ。昼なのに分厚い雨雲が太陽を隠してしまい、部屋の中は灯りを点けなければ薄暗かった。
フィリアは今日もヴェントゥスと部屋で本を読んでいた。最近はずっと雨が続いていて、本棚にある本はもうほとんど読み終えてしまった。
城には書庫があるが難しい本しか置いていない。すべて読んでしまったらアクアに本を借りにいこう。
いつものように二人で一緒に本を持つ。今読んでいる本は“人魚姫”昔、アクアから譲り受けた一冊だ。
「『こうして、人魚姫は人間に』……ん」
部屋がノックされた。フィリアは読むのをやめ、扉の方に顔を向けた。
「フィリア、ヴェン、いる?」
「アクア? どうしたの?」
そっと部屋の扉が開いてアクアが顔を覗かせた。その表情はなぜだかとても嬉しそうだ。
「二人とも、大広間に来てほしいの」
二人の修行中に呼び出されることなんて、今までなかった。
「わかった。ヴェン、行こう!」
フィリアは本を机に置き、頷くヴェントゥスの手を掴んで大広間へ向かった。
大広間ではエラクゥスとテラが待っていた。二人もアクアと同じく微笑んでいる。
「ヴェントゥス、ここに立て」
エラクゥスがヴェントゥスに向かって柔らかい声で言った。フィリアはヴェントゥスと繋いでいた手をそっと離し、テラの横に整列する。
ヴェントゥスが指示された場所に立つと、テラとアクアがそれぞれ何かを持ちながら、ヴェントゥスに近寄りしゃがみこんだ。
「ヴェン、ちょっとだけ動かないでね」
「もう少し左腕を上げてくれ……ああ、それくらいでいい」
アクアが黒いリボンのようなものをヴェントゥスの背と胸の前で交差させ、銀のシンボルを使って留める。左腕ではテラが鎧の装着装置を取り付けて、留め具の音をパチンと鳴らした。二人が離れると、テラとアクアと同じような装備を付けられたヴェントゥスが完成する。
あれらは、マスター・エラクゥスに弟子と認められたキーブレード使いだけが、身につけることが許されるもの。意味を知らないヴェントゥスは、銀の留め具を不思議そうに眺めていた。
「ヴェン、とっても似合ってるよ」
声をかけると、ヴェントゥスがこちらを見て首を傾げた。隣に立っていたエラクゥスがヴェントゥスに近寄り、その肩に手を置く。
「それらはこの地で修行するキーブレード使いが身につけるもの――大切にするのだぞ」
ヴェントゥスが頷いたのを確認して、エラクゥスが宣言する。
「明日からヴェントゥスの修行を開始する」
「……!」
予感はしていたが、実際に言われると胸に鉛が落ちてきたような錯覚がした。
「やっぱりヴェンのは黒にして正解だったでしょ?」
「なんだよ。赤だってきっと似合ったさ」
隣でテラとアクアが笑い合っている。
「…………」
フィリアは誰にも悟られないように、服の裾をぎゅっと握りしめた。
★ ★ ★
夜。もう辺りは静まり返っていた。
テラは、木に巻きつけた紐をきりりと締めた。木片が縛られ、キーブレードを模した木剣が出来上がる。
木剣を握り、軽く回して具合を確かめる――問題ない。
「上出来だな」
予想以上の出来に満足し笑みがこぼれる。
これは、明日から始まるヴェントゥスとの修行用に作成したものだ。適当なものでいいと言われたが、手抜きが許せない性分のせいか、つい凝ってしまった。もう寝る時間だ。
テラが木剣を見ながらベッドに腰かけたとき、部屋のドアが小さくノックされた。控え目な声が扉の向こうから響いてくる。
「テラ、起きてる……?」
「アクアか。ちょっと待ってくれ」
木剣を置いてドアを開くと、アクアが少し困ったような表情で立っていた。
「こんな夜中にどうしたんだ?」
「書庫の本が数冊なくなっているの。テラが持っているんじゃないかと思って……」
「書庫の本? いや、知らないな」
テラが答えると、アクアはしばし目を伏せた。
「そう……もしかしたらどこかに置き忘れているのかも。もう少し探してみるわ」
「ああ。俺も探してみるよ」
「ありがとう。あ、それと……」
「ん?」
アクアが、少し躊躇いながら言う。
「フィリアのこと。ずっとヴェントゥスと一緒だったのに、またひとりになっちゃうのはかわいそうよ。せめて魔法の修行だけでも参加できるよう私たちからマスターに頼んでみない?」
「……」
アクアの気持ちは痛いほどに分かったが、返事に詰まった。
実は、フィリアの件についてエラクゥスと以前話したことがある。だが「おまえが口出すことではない」と叱られただけだった。
「『フィリアのことよりも、まずは己のことを考えろ。我らの修行は、遊びではないのだぞ』」
アクアが目を丸くし、そして肩を落とした。
「……テラも、マスターに言ってみたのね」
「ああ」
背負っている使命が違う――。
「でも……! それだけで魔法の修行が許されないのはおかしいわ」
アクアが眉を寄せる。それは自分も感じていたことだ。
「……マスターには何か事情があるのかもしれない」
「事情って?」
「分からない。だが、俺たちも教えていない何かがあるんじゃないか?」
「それが……フィリアの修行参加を認めない理由?」
テラは頷く。
「だから、今はきっと何を言ってもダメだと思う。俺たちは他にフィリアのためにできることをしよう」
「……わかったわ。それじゃあ、おやすみなさい」
「おやすみ」
アクアが廊下を戻ってゆく。その後姿が完全に見えなくなってから、テラは静かに扉を閉めた。
★ ★ ★
屋根に溜まった雨水が、ぽたぽたと滴っている。久々に雨がやんだ。
廊下の窓からカラリと晴れた青空を見上げて、フィリアは大きく欠伸をした。
「こら」
「あ、ぅっ」
口を閉じようとしたとき、後ろから頭を小突かれた。振り仰ぐとテラのニヤリとした笑みがある。
「テラ」
「マスターに見つかったら、叱られるぞ」
なんだか恥ずかしくて掌で口を押さえた。確かに、今の大あくびをエラクゥスに見られていたら「気が緩んでいる」と言われていたに違いない。
「フィリアが寝不足なんて珍しいな。夜更かしでもしたのか? ほどほどにしないと、大きくなれないぞ」
「う、うん……」
思わず顔が引きつりそうになるのを必至に堪え、またあとでと去っていくテラの背を見送った。
夜更かし――した。昨日、書庫から攻撃魔法について書かれている本を三冊程持ち出し読んでいた。
自分は攻撃魔法の習得やそれに関すること一切を、なぜかエラクゥスから固く禁じられている。しかし、今日からヴェントゥスが修行に参加する。またあの時間、独りぼっちになってしまう。そう思ったら、何かしなければ寂しかった。そして自分も修行に参加したいという思いからか、禁止されたことへの興味からか。攻撃魔法を習得したいと思ったら、それ以外やりたいと思うことは浮かばなかった。
攻撃魔法の本を探して書庫へ向かうと、やはり難しいタイトルの本ばかり。適当に選んで一通り眺めてはみたものの、やはり自分にはわからなかった。
それでもエラクゥスが修行の参加を認めてくれない以上、これは誰にも頼れない。自力でやっていくしかないのだ。
「……とりあえず、辞書も借りなきゃ……」
フィリアはもう一度窓の外を見て呟いた。
★ ★ ★
ヴァニタスは、岩壁に向かってキーブレードを振り上げた。剣から発生した真空刃が目の前の岩石を斬り裂き、土煙をあげながら崩れ落ちる。
「ヴァニタス、ここ数日気が乱れているようだな。何か気にかかることでもあるのか?」
いつもどこかへ出かけるのに、会話をしたい気分ではない今日に限ってゼアノートが荒野にいた。
「…………別に何も」
突き放すように答えるが、口もとで笑われる。何もかも見抜いているようなあの金の双眸が、今とても鬱陶しい。
視線から逃げるように荒野を進みゼアノートから距離をとる。かなり離れたところまで来ると適当な岩に寄りかかった。
最近、ヴェントゥスが修行を開始した。
修行といっても、毎日テラという兄弟子と木のおもちゃで打ち合っているだけのようだ。伝わってくる成果も、テラに跳ね飛ばされたとか、一回も勝ってないとかとても断片的なもので、自分にとって全く面白いものではない。
「…………」
苛立つ気持ちに反応してか、周りに魔物が湧き出した。
これは、ヴェントゥスと別れたときに芽生えた負の感情より生まれし魔物。思い通りに生み出し、操れ、消えれば自分に還元される。たまに感情が抑えられないときに勝手に生まれるときがあるが、いわばこれらも自分の一部。いつも共にあるものだ。
……そう、いつも共にあった。だから物足りない感じがするだけ――。
ヴァニタスは空を見上げた。様々な形をした白雲がどこかに向かって流れてゆく。
ヴェントゥスが修行を開始してから、テラとアクアがよく側にいるようなって、代わりにフィリアがいなくなった。食事のときくらいには会うが、それ以外はどこにいるか何をしているのかさえ分からない。
ヴェントゥスが知らないことを自分が知ることはできないし、その場に行って自ら確かめることも許されていない。
じれったさともどかしさ。そしてなぜあんな脆弱な存在であるフィリアのことが気になってしまうのかわからない。どんなに理屈や理由をつけてもスッキリと納得することができなかった。
周りでうろちょろしていた魔物を消すと、頭上を魚のような形をした雲が流れていった。
そういえば人魚姫の話が途中だった。そう思ったらまた足元から魔物が飛び出した。
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