大勢の人が行きかうロビーの中、ハデスは壁に背を預けて立っていた。青い肌と炎の髪、漆黒の衣を身にまとったこの冥界の神は、全知全能の神ゼウスへ嫌がらせをするために、健気にも、毎日このコロシアムに通っている。
「あいつはダメ、こいつもダメ。おっ、あそこのやつは……もっとダメ!」
強者が集まるコロシアムなんて謳われているが、自分に言わせれば、どいつもこいつも見かけだおしの筋肉ダルマ。才能も素質もない者ばかり。
「これだけ毎日探しても、パッとしたのがひとりもいないな……今日のところは引き上げるか」
本日も収穫なし。
うんざりと混みあう人々をかきわけて、コロシアムの出入り口へ向かう。もうすぐ扉に着こうとしたとき、一瞬の煌きと共に上から何かが落ちてきた。
「きゃっ」
「うおっ!?」
とっさにソレを受け止めて、ハデスは仰天する。おおよそコロシアムの天井から降ってくるとは思えない、人間の少女だった。その服装や装飾は、この辺りでは見かけぬもの。
風変わりな格好をした少女は、ハデスを見上げ、きょとんと小首を傾げてみせた。
「あ……れ?」
「なんだ、おまえは。この俺さまの上に落ちてくるなんて――」
「あ、そっか! ごめんなさい。魔法に失敗しちゃったみたいで……」
言いながら、少女がハッと入り口の方を向いた。誰かの名を呟いたかと思えば、ハデスの腕の上で慌て始める。
「本当にごめんなさい。それじゃあ!」
「あっ、おいこら!」
逃がすまいと腕を締めるも、少女はまるで猫のようにハデスの腕から逃れ、あっという間に人波へ消えてしまった。
「なんだったんだ……いや、それよりも……」
少女が消えた先を見つめながら、しばし顎に手を充てて考える。あの娘には――見た目だけではなく――とても奇妙なものがある。強いて言うなれば、片鱗。綻びのようなもの。
「…………もしかしたら、使えるかもしれないな」
口元に笑みを浮かべると、ハデスは少女を追い始めた。
★ ★ ★
フィリアはロビーを抜け、通路にある太い柱の影に寄りかかると、ずるずると床に座り込み、大きく息を吐いた。
「……あの人が受け止めてくれて良かったぁ」
テレポのように扱いが難しい魔法を、長距離――しかも知らない場所めがけていきなり発動させるのは、いくらなんでも無謀すぎた。アクアですら目に見える距離でしか使わない。失敗は当然だった。
「危ないから、もう使わないようにしよう」
ひとまず無関係の人を下敷きにせずに済んだことに胸を撫で下ろしつつ、これからどうするか思考を切り替える。考えるべきは、当然ヴェントゥスのこと。
「……逃げてきちゃった。……どうしよう……」
自分を心配してくれているのがわかるほど、心が痛い。テレポをした後、コロシアムの中にやってきたヴェントゥスを見て更に逃げた。一緒に旅をしているのだから、このまま逃げ続けるわけにはいかないのに。――そう、ヴェントゥスと旅をする限り。
「私にも、キーブレードが使えたら」
幾度も想像し、願ったこと。世界を巡り、救う鍵は、自分にとってコンプレックスであり、妬みの象徴だった。
自分にもキーブレードがあれば、ヴェントゥスに頼らずとも世界を渡り、あの少年を探すことができる。戦闘ではもっと役にたてるだろうし、あの少年の力にだってちゃんと対抗できるはず……。
「あ――」
その時――――閃きのように浮かんだ“考え”に短く息をのむ。
「キーブレードだけじゃ、ない」
それらの力を与えてくれるものは、なにもキーブレードだけではない。――――――闇の力。
マスター・エラクゥスは闇は悪だと嫌っていたけれど、使い方を誤らなければ、その力に溺れなければ……。
「闇の力を手に入れられたら、私だって……」
「なかなか興味深い話題だ」
「きゃあっ!」
いつからそこにいたのだろうか? 見上げると、燃える髪と青い肌をもつ男が、ギョロリとした目で自分を見下ろしていた。先ほど会った男――奇妙ないでたちに妖精かとも思ったが、彼の纏う雰囲気は、以前出会った妖精たちとは似ても似つかない禍々しさに満ちている。
「あなたは、さっきの」
「俺は冥界の王、ハデス」
「冥界?」
「ま、簡単に言うなら死者の世界だな」
どうして追いかけてきたのだろう。こちらの怪しむ態度を哂うように、ハデスが口端を吊り上げた。ぬるい空気がざわめいて、嫌な気配が漂ってくる。
「お嬢ちゃんは、なぜ闇を求める?」
「私は……」
迂闊に答えていいものか迷ったが、男の見抜くような視線に耐え切れず、頷いた。
「力が欲しいんです。できるだけ強く、大きな力を」
「強くて大きな力、ねぇ」
丸めた背を壁に預け、腕を組みながらハデスが言った。
「巨大な闇を手に入れるには、それを受け入れるだけの器が必要だ。俺から見れば、お嬢ちゃんはまだそれじゃない。まず、その辺を鍛える必要がある」
「……闇の力に、お詳しいんですね?」
「俺は闇のエキスパートだからな」
ハデスが腕をくるくる回すと、黒い雲のようなもやが現れて消える。彼も、闇の住人――おぞましさを感じるが、なんて都合の良い出会いだろう。
「教えてください。どうしたら、私にもその力を扱えるようになれますか?」
「方法はいくつかあるが、一番の近道はとにかく強い奴と戦うことだ。そうだな、ここの闘技大会に参加するといい」
「でも、エントリーはすでに締め切られてしまったと――」
言葉の途中で、ハデスがどこからともなく取り出した紙切れを見せ付けてきた。それには、大きな文字でエントリーチケットと書かれている。
「これで闘技大会に参加できるな」
「そう、ですけど……」
思わず、一歩、ハデスから距離をとった。
「私のために、どうしてそこまで? これは、ハデスさんが参加するためのチケットじゃないんですか?」
「お嬢ちゃんの熱意にうたれたのさ。いらないのなら、別に受け取らなくても構わないぞ?」
果たして本当に、闇の住人が親切心だけで動くのだろうか。甘い言葉の裏に良からぬ企みを抱くのが、闇の住人なのではないか?
良心と願望が胸の中で呵責する。師の教えはいつも正しかった――しかし、この機を逃したら。
「……いいえ、頂きます。ありがとうございました」
「それでいい。無駄にしないよう、せいぜいがんばってくれよ」
チケットを受け取ると、ハデスはパチンと指を鳴らし、煙と共にいなくなった。
「消えちゃった……?」
周囲を探すも姿はない。まるで夢から覚めたかのように、不気味だった空気はすっかり元のコロシアムのものに戻っていた。
自らを死者の世界の王と言っていた。あの肌色といい、もしかして彼は――。
「まさか……おばけ?」
フィリアは顔を青くして、確かに手に残されたチケットを見て呟いた。
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