黒いコートの男は迷わぬ歩調で石造りの街を進んでいった。カツカツ、コツコツ、一定に刻まれるテンポを追いかけて、誰かの家の裏庭の前を、噴水の前を通り過ぎてゆく。これだけ人気の集まる場所を見かけても不思議と誰にも出会わなかったので、不安に思いながらも男の後ろを追いかけ続けた。
とある広場の側へさしかかったとき、丘の上にコロシアムの屋根がチラリと見えて、やっと胸をなでおろすことができた。ここまでくれば、グミシップへ戻れる。
予想外なことがたくさんあって疲れてしまった。立ち止まって呼吸を整えていると、すでに遠ざかったのだろうか、男の足音は聞こえなくなっていた。
あの人が通りかかってくれて助かった。
コロシアムを見上げて、友達のことを思う。
ソラたちも、もうグミシップへ戻って来ている頃だろうか。迷子になったことは秘密にしようと思った。恥ずかしいし、心配をかけたくないし。
コツ、と真後ろから足音がした。ギョッとして振り向くと、先ほどまで追いかけていた黒いコートの男がいる。距離は自分の足で三歩もない。真っ黒のフードの中より強烈な視線を感じていた。
いつの間に? 追いかけられたことに気がついて、怒っているのだろうか?
ひゅっと息が浅くなる。じりじり後退しながら言葉を探した。
「ご――ごめんなさい。私、道に迷ってしまって、それで……ひっ」
やっと稼いだ距離も、男が一歩動くだけで無意味となる。
顔もよく見えない大人から無言で見つめられ続ける圧力と不気味さは、すぐに耐えられなくなった。
もうだめだ、走って逃げよう!
限界を感じ駆け出そうとする直前、男の手が頬へ触れてきた。
「やっ……!」
革手袋のつめたい感触に、ビクッと肩がはね、足は凍ったように動けなくなる。心が強く嫌だとおもっているのに、恐怖ですくんで振り払えない。
促されるまま顔を上げると、美しい男と目が合った。心臓がばくばくと胸を打つ。ギラギラとした金色の目、褐色の肌。薄い唇の端が僅かに上がり「見つけたぞ」と囁いた。
「フィリア……だな」
低い声がねっとりと名を呼ぶ。
「どうして」
名前を知っているの。訊ねる前に男の手から解放される。
「しかしまだ、その時ではない」
そう言い終わるが早いか、男はこちらに背を向けて、さきほどと同じ歩調で広場へと消えていった。しばらく呆けていたが、ハッとして男の消えた方向を覗いてみると、もう誰もいなかった。
「あの人は、いったい……?」
言葉を素直に受け取るならば、自分はあの男に見つけられたことになる――ならばその時≠ニは?
ぶるりと体が震えだした。考えても分かるはずがないが、とても恐ろしい。早くグミシップへ戻ろう。コロシアムの方向から恐ろしい獣の咆哮が響いてきて、悲鳴をあげた人々が走ってきた。
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