珍しく、おかしな雰囲気の一日だった。空気がピリピリ張り詰め、息苦しさを感じていた。フィリアがエラクゥスの言いつけを破っていたことが発覚したせいだった。
テラもアクアも笑顔を浮かべていなかった。ヴェントゥスもなんとなくだが、気まずさを感じていた。この地に来てから様々な常識や教養を教え込まれたこいつだが、未だ、どうしてフィリアがそんなことをしたのか想像する発想も持たなかった。ただひとつ、はやくいつも通りに戻らないかと、漠然とそんなことだけを望んでいた。
和解に向かうフィリアを見送ったあと、またテラたちとの稽古が始まる。ここだけはいつも通りの、体じゅうに痛みが苛むつまらない時間。それが終わると休憩の時間だ。この日は、前庭の端に座っていた。
しばらく無言の時が流れていたが、さりげなくテラが話しかけてくる。アクアもだ。テラが立ち上がり、木の剣を得意げにかざしてみせた。
「この剣を手にしてみろ。おまえにその資格があるのなら、剣はおまえに力を与え、いずれ選ばれし者となるだろう」
テラが気取って言ったセリフを、アクアがからかう。
「そうだ、俺とヴェンとアクア――俺たちの夢だ」
いつかマスターがヴェントゥスにしたものも、これと同じ儀式なのだろうか。ざわざわと背筋が粟立った。なぜだか嫌な予感がしていた。
差し出された木のおもちゃを、ヴェントゥスが掴む。なんてことはない、ごっこ遊びだ。けれどその瞬間、足元にあったヴェントゥスの精神、ステンドグラスが真っ白に輝く。
「なっ――!?」
激しい風が下から吹き上げてきて、思わず両腕を交差させ、顔面を守った。
光はすぐに収まって、おそるおそる、目元を庇った腕を解く。ステンドグラスは何事もなかったかのように静まり返り、変わらず眠るヴェントゥスの姿が描かれている。しかし。
「……そんな…………」
ヴェントゥスの手に描き足されたように握られていたもの。それは紛れもなく、ヴェントゥスのキーブレードだった。
変わってゆくヴェントゥスの精神の世界。光が強まってゆくごとに、自分の中の何かが痛む。
ヴェントゥスは常に自分の考えを主張したり、相手を思いやったり、時に笑い、時に拗ねて、時に落ち込むようになった。そうして未来を重ねてゆき、過去を、記憶どころか心から忘れ去ってゆこうとしている。
ヴェントゥスの心を初めて感じたとき、それができたのは自分がヴェントゥスの主を握った存在だからなのだと思ったが、マスター・ゼアノートからの答えは違った。むしろその逆で、自分がヴェントゥスの一部だったとしたら――? ヴェントゥスから欠けた部分でできた存在が自分ならば、ヴェントゥスの心が癒えきったとき、自分の存在はどうなる。この思考すら、本当はヴェントゥスのものなのか?
いくら強くなったって、魔物を生み出していったって、不安や空虚さは消えない。苦しくて、吐き気までする。叫んでも、破壊しても、この乾きを癒せるものなど見つからない。
激情を持て余す日々を繰り返していたとき、やっと世界を放浪する許可を与えられた。
出口のない感情の捌け口代わりに、旅を続ける。どの世界も初めは退屈を忘れるが、すぐに飽きて次を探した。荒野から出られればこの飢えが満たされると期待していたが、そんなことはなかった。
適当な世界の、適当な家の屋根上で足を止める。特段、興味を惹かれるものもない。自分が意識を奪われるのは、やはりあの世界にあるものだけだ。
「ヴェン、ポーション飲まないの?」
フィリアが目の前に立ち、じっと見上げてくる。その瞳に写るのは、いつもヴェントゥスしかいない。奥の奥にいる自分のところまで届いていない。
ヴェントゥスは、あのおぞましい事件からポーションが飲みたくなくなったらしい。余計な経験をこちらまで寄越してきたことは、いつか絶対に精算させてやる。
「そうだ。ポーションの代わりに私がケアルしてあげる」
「えっ、いいのか?」
「うん。『ヴェンが痛いとき、私がケアルしてあげる』って約束したし」
言いながら、フィリアは絆創膏だらけの指で腕に触れてくる。人の痛みを気にかける前に、怪我をしないように気を付けられないのか。
「癒やしを」
もたもたとした祈りによって唱えられた、いつかと同じ緑色の光によって、腕に共有していた痛みが消えてゆく。他人に想われ癒されてゆく感覚は蒸気のようにほわほわとしていてつかみどころがないが、まるで自分までフィリアに触れられたのかと思ってしまうほど確実に、ヴェントゥスから伝わってきていた痛みだけがさっぱりとなくなった。残ったのは、自分だけが感じていた胸中の苦しみだけ。それだけがジクジクといつまでも居座り続ける。
なぜ、――なぜ、おまえばかり。
渦巻く苛立ちが、周囲に魔物を生み出させる。許せなかった。
どうしてこちらばかりが苦しんで、おまえは光の中で笑っているんだ。
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