暗闇が怖かった。静寂が怖かった。ひとりでいることが怖かった。先ほどまで光の中で大好きなひとたちと一緒にいたという幸せな記憶が、現状の不安を加速させた。
高い天井と、己の両腕いっぱいに広げてもなお余る広い廊下は、自分をちっぽけなものに思わせた。右の掌を壁に滑らせ、左の手には温もりを分け与えた枕を抱えてひっそり歩く。目的の場所は遠くはないが、視界が狭い中では果てしない距離に感じられた。
暖かな気配のある扉の前にたどり着くと、小さなノックをたくさんした。僅かな間のあと、こちらの訪問を見抜いていた困り顔が現れる。
「フィリア。もう来てはいけないと言っただろ」
「だって、だって、うぅ……テラぁ……」
いつものようにべそをかいていたので、上手く言葉が出てこない。彼はため息を吐きながらも期待通りに部屋の中へ迎え入れてくれたので、それに従う。
ベッドに座ると、テラは自分の足を見てまた叱ってきた。
「また裸足できたのか? ちゃんと靴を履かないと。もし怪我をしたら、痛いのはフィリアなんだぞ」
「……音が追いかけきて怖いんだもん」
鉄アレイやら魔法の本やらを大雑把に片付けながら、テラが寝支度を整える。部屋の隅に子供向けの絵本が数冊置いてあるのは、自分がこうして夜中に彼の部屋へ来るときのためのものだ。アクアを頼ると、なんだかんだで自室に戻らされてしまうが、彼は共に眠ってくれるので、確信的に甘えさせてもらっている。
「そこにある本は、もう全部覚えちゃった」
「む……そうか」
足裏を拭きながら絵本を見比べている彼に言うと、「まいったな」と言うふうに頭をかいた。
「ねぇ、テラ。おはなしして」
「おはなし? 絵本じゃなくていいのか?」
「うん」
照明を薄暗くして、いっしょに寝床に入りながらテラがひとつあくびする。片腕を折り曲げた上に頭をおき、もう片方の手は肩を優しくぽんぽんと叩いてきた。布団の中はひんやりしていたが、彼といっしょなのですぐ暖かくなる。
「そうだな……じゃあ、この世界に伝わるこわーいはなしをしてやろう」
「えぇー」
やだ、って顔をしたのに、テラはそれを語り始めた。
「知ってるか? この世界には、真夜中におばけが現れるんだ。おばけは真っ黒な服を着ているから近くに来られてもなかなか気づけないし、フードをかぶっているから誰も素顔を見たことがない」
窓の外や廊下はシンと静まっていて、テラの声と鼓動のみが届く。息すら潜めて話を聞いた。
「おばけはいつも仲間を探していて、毎日、夜の世界をうろつくんだ。夜中に出歩く悪い子を見つけると、暗闇の中へ連れ去って、おばけの仲間にしてしまう」
「おばけの仲間に……!?」
もしかすると、今さっき自分の側にもいたかもしれない。
「もし、おばけの仲間にされちゃったら、どうなるの……?」
薄暗がりの中、テラがニヤリと笑うのがわかった。
「おばけと同じになるのさ。楽しいことも、嬉しいことも、寂しいことも悲しいことも、なにもかもわからなくなって、永遠に闇の中を彷徨い続けるんだ……」
「わ、わたしがおばけになっちゃったら、もうテラにも、アクアにも、マスターにも会えなくなっちゃうの?」
体はまだだるいのに、目と思考だけはそこですっきりと覚醒した。
「今の夢は……」
ゆっくり起き上がりながら思い出す。この世界に来て、テラたちの後ろを追いかけてばかりいた頃だ。
テラは自分に夜中、出歩くのをやめさせたいがためにあんな作り話をしたのだと思うが、実際はあの後、テラが頷くなり大泣きして、何事かとアクアが駆けつけ、ますますひとりで眠れなくなった記憶だった。加えて、テラとアクアが外の世界に行く度に、闇に吸い込まれて二度と帰ってこないのでは、と思うきっかけにもなった。さすがに、もう信じていないけれども。信じては――いないけれども。
「……みんな、はやく帰ってこないかな」
故郷は、やはり、とても落ち着く。あくびをしながら窓を見た。時刻は昼すぎというところか。鳥がのんきに空を横切ってゆくのを見送っていると、ある気配に気がついた。
「ヴェンだ」
まだ姿は見えないものの、強い光を宿した心が一直線にこの城へ向かってやってきている。それを、迷いすらなく彼だと思った。
「帰ってきたんだ!」
ベッドから飛び降りて手早く身なりを整えると、部屋を飛び出した。
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