彼が一歩こちらへ近づいた足音と、自分が唾を飲み込む音がやけに大きく感じられた。
 呼吸が浅くなり、心拍が早まってゆく。緊張から手足が蝋で固められてしまったような錯覚すらした。頬を伝う汗。彼はただこちらを見つめ立っているだけだというのに、粘りつくような威圧を感じていた。

「落ち着け」

 何度も頭の中で繰り返し唱える。怯えている様を見せれば、また彼の好きなように振り回されるだけだ。
 震える拳を隠し、大きく息を吐き出して、なんとか澄まし顔を装った。

「……やっと来てくれた」

 ゆっくり言えば、彼の仮面が少し傾く。

「おまえが待っていたのはヴェントゥスだろう」
「そう。だけど、君の方が先に来てくれるって思ってた」
「ほう?」

 彼から感心したような、試すような声があがる。

「だって君、あの崖道で、ワザと私に気配を教えたでしょう?」

 彼は返事をしなかった。肯定ととり、話を続ける。

「私のお守りは?」
「ここにある」

 涼しげな音と共に、黄色の星が彼の手からぶら下がる。切望したものを前に思わず手を伸ばしたくなったが、唇を噛んで耐えた。

「こんなもの、今すぐ返してやってもいい。――ただし」

 彼が手に闇を、キーブレードを召喚する。

「俺に勝てたらな」

 キーブレードの刃先がこちらへ定められる。
 覚悟はしていたが、やはり、どうしても、戦わなくてはならないらしい。
 距離を取りたいのを堪え、土を踏みしめる。声が震えないか不安だった。

「……わかった。だけどその前に、ひとつ教えて」
「何だ」
「君は誰?」

 ヴァニタスという名はテラが呟いたのを聞いただけで、彼自身から教えられたものではないし、仮面は彼の顔すべてを覆ってしまっている。だから自分にとって彼は、本当の名どころか、顔すら知らない人。それでいて世界を旅する道を与えてくれた恩人であるし、大切な人たちを手にかけようとした危険人物。宝物を取り上げていったひどい人で、今から全力で戦わねばならない相手。
 戦闘の承諾をしたが、未だ溶かすことのできない躊躇いを抱えていた。敗北を恐れているからではない。ずっと目標にしてきたことなのにもかかわらず。強いて言い表すならば――心が彼と戦うことを嫌がっていた。
 一切分かり合えることもなく、傷つけ合い、憎しみ合わなければならない関係は不幸だ。どうして彼は自分たちにこんな関係を望むのだろう。友達に……仲良くできたら良かったのに。苦しくて、恨めしくて、腹立たしくて、怖くて、辛くて、悲しくて、寂しくて……そんな気持ちが混じり合って、胸の奥を穿ってくる。
 今更になって、こんな迷いを生み出す気持ちの出処が分からなかった。ただ、彼が近い年齢であるらしいからそう思うだけなのだろうか。――あれは闇の住人だ。何を迷うことがある。

「闇を許すな。闇を滅ぼせ」

 はじめは、さもそれが絶対に正しいと信じていた師の言葉。
 それは間違いではなかった。
 けれど、だけど。
 光も闇も、片方だけではどんな世界も存在できない。なのに消し合わなくてはならないのか。つぶし合わなくてはならないのか。
 言い訳を探すように、考えても仕方のない葛藤に気をとられながら返答を待っていると、ふと、彼が剣の構えを解いた。

「なぜ、そんなことを訊く」
「聞いてるのは、こっちだよ」

 とっさにレイディアントガーデンで彼がアクアに言い放った言葉を返せば、また彼が黙った。
 張り詰めるような沈黙の中、彼の両腕はだらりと下がり、仮面も同じく下を向く。その姿は怒っているようにも、落ち込んでいるようにも伺えた。

「……いつまでそんなフリを続けるつもりだ」
「えっ……」
「もうおまえは知ってるはずだ」

 一段と低くなった声に責め立てられて、反射的にギクリとする。
 何のことだろう。自分が何を知ってると――彼のことを、知っていると?
 そんなはずはない。首を軽く横に振る。彼と出会ってから今までで、敵意以外の何を知れたというのか。
 混乱の泥から次の問いの形を固めている間に、再びキーブレードの鎖が鳴った。時間切れを告げる音だ。改めてこちらに向けられた刃は、戦いの決着がつくまではもう下ろされないであろうことだけ、はっきりと分かった。




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