その数日後、久雨はいつもよりも遅く出勤した。
 本来なら休みの日だから、と言う訳ではなく、朝から居ると抜き打ち視察にならないから
という理由で許可はとってある。
 けれど、休みの日を変更しただけで、出勤日を増やしたわけでは無いから、当然ながらその分の残業は決定済みだ。
 平助くんには内緒だ、文句を言うに決まっているし、こっちだって好きでこんなことをしているわけでは無いのに文句を言われるのは辛い。
「おはようございます。」
 残業確定と言う憂鬱を抱えながら事務所に入ると、みんなが疲れ切った笑顔で迎え入れてくれる。今日も朝から何かしらあったらしい事がうかがえる…。
「どうしたんですか?」
「いやぁ…、焼き菓子がね、一店舗届いていないって連絡来てね…。で、他の店舗に確認してもらって、間違って届いていないか聞いて…。」
「ったく、平助のやろう、最近たるんでんじゃねえか?」
 近藤専務と、土方工場長からのセリフに、久雨の表情が暗く陰った。
 また、焼き菓子の部署で問題…?最近ずっとイライラしてるみたいだし、クレームの件で集中できなくなってるのかな…。
 申し訳なさに俯いてしまう。
「で、どうだったんですか?届いていないなら誰かが届けに行かなきゃ…。」
「それが、一番遠い催事用のだから余計に問題なんだよ…。今から届けようにも、新幹線に乗ってなんて行けないだろう…。」
「いや、平助休みなんだ。行かせるべきなんじゃねえか?」
「自分が行ってきます。」
 すかさず島田さんが声を上げるけれど、行くかどうかの判断もまだ出来ないらしく、保留された。
「常設店舗と違って、催事に迷惑かけちまったら、会社全体の信用問題だしな…。」
「じゃあ、どこにも間違って届いていないんですか?」
 大問題だ…。次回からそのデパートで扱ってもらえなくなるようなことになったら…。
 と、その時電話が鳴り響いて、土方工場長が勢いよく電話に出た。
 大丈夫だろうか、何でそんな事が起こったんだろう…?配送用に積み上げたときに確認しなかったという事?最終確認は昨日は誰の仕事?
「ああ、そうか見つかったか!そっちから人を出してもらえると助かる、こっちよりは近いだろう。ああ、頼む、悪かったな、今後は無いようにするから。」
 土方工場長の言葉と表情で、何とかなったと分かると、事務所内に安堵の空気が流れた。
 自然、電話を切った土方工場長の言葉を待つ流れになる。
「催事場違いで届いていたらしい。幸い、一番近い店舗だったから今回は何とかなったが…。」
「デパート名は一緒ですからね、地名の書き間違いですか?」
「いや、どうもよく分からねえらしい。届いた数が多いから、これがそうじゃないかって、向こうが教えてくれたんだが…。違うケースに入っていたが、行先のシールは貼られていなかったって。トラックの中で剥がれたか、最初から貼り忘れたのかは分からねえが…、平助からの連絡待ちだな。」
「え、平すっ、藤堂くんに電話したんですか?」
「当たり前だろう、あいつにも聞かないでどうするんだよ。」
「…そうですよね。」
「出なかったがな…。」
「…そうでしょうね。」
 休みの日に、こんな朝から起きているとは思えない。
「ともかく、一件落着だな。はぁ、心臓に悪いぞ。午後の会議に響くかと思った…。」
 近藤専務が胸を撫でおろしている姿を見て、みんな肩の力を抜いた。緊迫した空気が去って、やっと日常の業務に進めると、土方工場長が腰を浮かせてから、こちらをチラリと見てきた。
「…?なんですか?」
「今日、焼き菓子の監視だったな。」
「監視…、まぁはい、そうです。」
「…じゃ、お前が作業工程の確認をよぉくしておいてくれ。俺がやるよりは油断して普段の姿を晒すだろう。」
「分かりました。」
 うん、そうかもしれない。土方工場長に張り付かれたんじゃ、緊張して普段通りに働くなんて無理だろうし、パートさん達に至っては、浮かれて仕事どころじゃなくなるだろうな…。
「俺も、イライラしちまって何言うか分からねえからな…。」
 浮かせた腰を今一度椅子に戻しながら、土方工場長が恐ろしいことを呟いた。
 いや、お気持ちはお察ししますが、絶対に泣くパートさんが出て、仕事どころではなくなるので…、はい、私が行ってきます。
「じゃあ、とりあえず一回見てきます。」
「ああ、頼んだ。」
「はい」
 自分のデスクに荷物を置いて早々に現場に行くことにした久雨だったけれど、気持ちは晴れない、どころか益々曇ってしまった。
 デートは潰れるし…て、どうせ今日は家でまったりゲームのつもりだったらしいから、いいんだけどさ…。それに残業するなって言われてたのに最初から残業の予定になっちゃったし、来たら大問題起きてるし…。
 なんだろう、今月あまり良いことがない…、厄月とかあるのかな?
 色々ともやもや考えながら焼き菓子の部屋に入ろうとした時、中からみんなの笑い声が聞こえてきた。普段も楽し気に仕事をしている部署だけれど、こんなにあからさまな笑い声は珍しい。
 ノックして部屋に入ると、そこには…。
「あれ〜、久雨さんじゃないっすか!今日は休みじゃなかったんすか?」
「…町田くん、何してるの?」
「何って、主任の真似っす。」
 大学生の町田くんが、作業場の真ん中で生地の入った重い器を転がしていた。
「主任の真似?」
「そうっす。主任の。こうやって、こうで、おりゃぁ!!てやるんす。」
 器を転がす腕を大げさに動かして、ぐるぐるっと転がるのを手を添えて支えながら…、ゴンッと作業台にぶつけた。
「うわっと!あっぶね、倒れるとこだったぁ。主任みたいにはまだ出来ないっすねぇ。」
「……。」
 久雨の目が細く険しくなる。
 なにしてんだ、コイツは…っ!!
 そんな久雨の様子に感づいたパートさんたちは、笑いを苦笑に変えて、作業へと戻っていった。
「町田くん…。」
「ん?似てたっしょ?」
「似てません。藤堂くんはそんなに雑に商品を扱いません。真似をするなら、藤堂くんの仕事に対する真摯な気持ちを真似してください。生地は、大丈夫だったの?ゴミは入っていない?」
 傍にあったビニール手袋を装着して生地の確認に器へと近寄ると、町田くんが同じように器を覗き込んで確認する。
「大丈夫っす。綺麗っすよ。久雨さんも綺麗っす。」
 …無視することにする。
「本当に気を付けて。この間、ゴミが入っていたってクレームが来たばかりで、何してるの?今は普段よりも気を引き締めていなければいけない時期でしょう!?」
「怒った久雨さんも綺麗っすねぇ。」
「話を聞いて!」
 本気で注意をすると、やっと町田くんがにやけ顔をやめて、首を傾げた。
「クレームって、なんすか?」
「…え?」
 なんだってぇ?クレームの件を知らない??
「前回の朝礼で話したよね?それに、掲示板に貼り紙してあったでしょう。」
「あー、俺、朝礼の日は出勤じゃないんすよね。」
「貼り紙は!?」
「見ないっす。」
「全員確認してサインするのが義務です!」
「読まないでサインしちゃうんすよねぇ。面倒じゃないっすか。」
 おのれは馬鹿か!!
 思わず叫びそうになった久雨は、我慢我慢我慢…と胸の中で念じながら貼り紙を引っぺがして町田くんに突き付けた。
「これ、読んでおくように。それから、さっきみたいな悪ふざけは二度としないで。バイト気分で軽い気持ちで働いているのかもしれないけれど、これは仕事です。大事な商品を作っている場所です。それも、お客さんの口に入る物を作っているの。本当に気を付けてください。」
「…久雨さん、本気で怒ってます?」
「当たり前です。」
「…すんませんっした。気を付けます。」
 目を吊り上げて町田くんを睨みつけると、素直に謝って貼り紙に目を通し始めた町田くんが、作業台にもたれかかって、しかも台の上にお尻をつけて、足を組んだ。
「台にお尻を乗せない!」
 腰を叩いて注意した久雨の目に、町田くんの靴の下にペロリと覗く紙切れを見た。
「…町田くん、靴も汚れてる。現場にごみを持ち込まないように、ちゃんと入り口でこすってきてる?」
「ん?やってるっすよ〜。…あ、なんかついてる。」
 なんかついてるじゃなーい!
 もう、何もかもに突っ込むのも疲れてきた…。
 町田くんが靴の裏を覗くと、そこには行先店舗を書いたシールが…。
 本来ならば、配送用のケースに貼られていなければいけないそれが、何故町田くんの靴の裏に!?という事は、剥がれて落ちてしまったのを、町田くんが踏んだ…?
 と、そこに勢いよくドアが開け放たれて、土方工場長が入ってきた。
「町田、居るか?」
「あ、はい。」
 さすがの町田くんも、土方工場長の前ではびしっと立つらしく、背筋を伸ばして返事をした。
「ちょっと来い。確認したいことがある。」
 土方工場長の表情は読めない…。あえて無表情に徹しているような…。という事は、あまりいいお話ではないのだろう、それを町田くんも感じ取ったようで、久雨に貼り紙を返して、肩を落として後をついていった。
 つ…疲れる。
 ぐったりとした気分で作業台に突っ伏したい気持ちを抑え、残された生地が入った器を、パートさんを一人呼び寄せて一緒に運んだ。
 そこから作業の監視に入ったのだけれど…疲れ果てて、これから仕事かと思うと泣きたくなった…。
 もう、原因は町田くんで良いんじゃない?
 投げやりにもそんなことを思ってしまう。けれど、そんな決めつけは良くないよね、と気持ちを切り替えて、午前中の監視に没頭していった。



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