5編

名前は宿題のプリントを前にして、ペンを鼻の下に挟んで唸っていた。
「何を唸っている、我が妻よ。」
「!!??」
突然後ろからのっそりと声を掛けられて、名前は心臓が口から飛び出るほど驚いた。鼻の下からペンが転がり落ちる。
振り返ると、やはりそこには風間先輩が居た。
宿題に気を取られていたとはいえ、気配を全く感じなかった。
いや、この人の気配を感じるのは誰にでも難しいかもしれない。
突然現れた、気だるそうな雰囲気を纏っている赤い瞳の青年は、自分を振り仰ぎ呆然としている名前の横に移動して、机の上にあるプリントに目を通した。
「か、風間先輩!!?」
「何だ?」
やっと緊張から解放されて、名前は横に立っている風間先輩に当然の疑問を投げかけた。
「な、何でここに?か、鍵、かかってましたよね!?」
「無論だ。」
「じゃ、どうやって・・・・・・?」
「鍵を開けてだが・・・?」
何を当たり前のことを聞いているんだ・・・と、その冷たい眼差しが語っている。
この目で見られると、名前はどうしても固まってしまう。
本能的な恐怖なのだろうか。絶対的な強者に怯える弱者のようだ。
しかし、これは不法侵入だ!
名前は一度深呼吸をすると、キッと眦を吊り上げて風間先輩を睨み付けた。
「どうやって鍵を開けたんですか?」
「鍵を使ってだ。」
「鍵って・・・、うちの鍵ですか!?」
「当たり前だろう。」
はぁ・・・と、聞こえるように嘆息すると、風間先輩が見下ろしている名前に身体ごと向き直った。
机に半身を預けて、立っていることすら気だるそうだ。
「お前は、何が言いたい?」
重く圧し掛かるような声だ。この一言一言に、名前の身体は強張る。
でも、負けてはいけない。
「何で・・・風間先輩が、うちの鍵を持っているんですか?」
「ふんっ。」
鼻で笑って、ポケットから鍵を取り出し、名前の目の前に掲げる。
「これを俺が持っているのが、そんなに可笑しいか?」
「・・・それ・・・・・・?」
「妻の家の鍵を持っていない夫が居るか?」
「いえ、そうじゃなくて・・・それって・・・」
素早く立ち上がり、風間先輩が持っている鍵を取り返そうと手を伸ばすが、風間先輩はそれよりも早く、手を天井へ伸ばして取られないように阻止する。
「それ、お父さんのですよね!?」
「そうだ。」
「どうしてそれを風間先輩が持っているんですか!?」
名前は、父のものを久しぶりに見た懐かしさと、それを本人が持っていないことの悲しさから、涙が溢れてくるのを堪えられなかった。
「ど、どうして泣く?」
「どうして・・・、お父さんの・・・を?」
息を詰まらせながら胸元にすがり付いて聞いてくる名前を、優しく抱き寄せて背中を撫でる。
「泣くな、泣き虫。」
「泣き虫じゃありませんっ」
「じゃぁ、その涙は何だ?」
「こ・・・これは・・・」
「鼻水だなどと言うなよ・・・。」
「・・・・・・。」
言おうとした台詞を先に言われてしまって、風間先輩を睨み付けた。
が、風間先輩にもう一度鼻で笑われて、背中を撫でられている手の暖かさから安心したのか、思わず名前も笑ってしまった。
その表情に安堵して、風間先輩が名前の大きな瞳の下瞼に溜まっている涙を暖かな指で拭った。
「この鍵は、綱道先生から預かったんだ。」
「・・・いつですか?」
「お前と出会ってから少し経ったころだ。お前を我が妻とすると告げたら、「宜しく頼む。」と言われて、これを渡された。」
「う、嘘ですよね?」
『我が妻とする。』というたった一言で自分を頼むだなんて、信じられなかった。
しかし、その言葉すら風間先輩は鼻で笑った。
「分かっていないようだが、俺と綱道先生は、古くからの付き合いだ。先生が保健医として学校に居た長さと、俺が生徒会長をしている長さは、同じくらいだからな。」
そういえばそうだった。何故だか卒業もしないで、ずっと自ら留年をし続けている風間先輩。そんな先輩に逆らえる生徒など居ず、生徒会長の座に君臨し続けている・・・。
「あの・・・、風間先輩は、お父さんの行方を知っているんですか?」
「いや、方々で噂は耳にするが・・・、性格には知らない。」
「そうですか・・・・・・。」
肩を落として落ち込む名前に、風間先輩がポケットから出した紙切れを手渡す。
「ん?」
受け取って広げて見ると、そこには薄い紙に緑の縁取りで色々と書かれている。
「これ・・・」
「我が妻を正式に妻とするための書類だ。こんなもの、俺にとっては必要無いただの紙切れだが、国にとっては必要らしいからな。」
「婚姻届・・・!?」
「さあ、お前の名前を書け。」
「書けって・・・」
机の上から勝手にペンを取り出して、手に押し付けてくる。
「いえ、書きませんよ!」
拒否をすると、また鋭い目つきで見下ろしてくる。
身体が竦むが、何とか毅然と睨み返す。
「書け。」
「嫌です。」
「書かないと、無理やり書かせることになるぞ。」
「そ、そんなの・・・っ」
名前の腕を掴むと、無理やりにペンを持たせて、机の上に婚姻届を乗せる。
名前は、ふとその横の宿題プリントに目が行く。
「あの・・・・・・。どれじゃ、離婚、してもらえますか?してもらえるなら、書きます。」
ピクリ、と風間先輩の動きが止まる。見上げると、不機嫌を思い切り表現した表情で見つめられる。
「それは、土方の宿題のためか・・・?」
「・・・・・・。」
「我が妻の機転が利くのは良いことだが、それはあまり利口とは言えないな。」
風間先輩は、「興が殺がれた。」と呟いて、名前から離れた。
「今日は帰る。また来る。」
名前の頬をすっと撫でて、背を向けた。
その背中に向かって声をかける。
「先輩!鍵、返してください!!」
「これは、俺が綱道先生から貰った物だ。せっかく義父から貰ったものを妻に渡す訳が無かろう。今まで使うのを遠慮してやっていたんだ。感謝されても良いくらいだ。・・・が、これからは遠慮をしないことにした。」
のっそりと告げて、部屋を出て行く風間先輩を、何故だか追いかけることが出来なかった。
背中から漂い出る不機嫌の渦が、名前を近づけることを阻んだ。
名前は、机の上に残された婚姻届に目をやった。
夫の欄に書かれた風間千景という名前が風間先輩の本気を物語っているようで、名前は何となく身震いした。
遠慮が無くなった風間先輩に、いつしか流されてしまいそうで怖くなったのかもしれない。
結局、名前は平助に電話をして一緒に宿題をすることにした。
しかし、集中することができずに、まともな感想を書くことが出来なかった。
翌日の土方先生の怒る顔が今から見えるような気がして、風間先輩の突然の来訪よりも恐ろしくて背中が震えるのだった・・・。




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