-2-
雨上がりで濡れている緑を眺めて、私はじっくりと観察をした。
空はまだどんよりと暗く、いつまた降り出すか分からない湿気と肌寒さを感じながら、眺めていた草を摘み取り、持っている籠へと入れると、隣の綺麗な薄紫色の小花を無視して、再び雑草と見紛うただの草へと手を伸ばす。
と、耳に慣れない音を聞きつけて視線を上げると、次第に音は大きくなってきた。
バシャバシャと、大きな石でも降ってきているのかと思うほどの大きさになった時、通りの向こうから何頭もの馬に乗った鎧武者達が現れ、段々と近づてきた。
敵襲…?
まさか、今回は軽い小競り合いで、怨霊も連れて行っていたはずだ…から、ここまで攻め込まれることは無いって…思ってたのに…。
道の端から武者たちの流れを見ながら、見知った顔を探し、中程に自軍の旗を見つけて、私は安堵の息を吐いた。
けれど、武者たちの表情は、勝利を思わせてはくれなかった。
私も、屋敷に帰らなきゃ…、何があったのか確かめなきゃ。
有川君の姿も無い、凱旋なら先頭で馬を走らせているはずなのに…。
馬が蹴立てた泥をそこかしこに浴びながら、一団が去るのを待って、私は屋敷へと駆け出した。
屋敷へとたどり着く頃には、屋敷の周りには興奮を抑えきれずに足踏みをする馬の群れと、屋敷へと慌ただしく出入りする甲冑の武者たちでごった返していた。
「ごめんなさい、ちょっと通して!」
馬の上に待機している武者たちに声をかけながら屋敷へと駆け戻ると、門の前で腕を掴まれて引っ張られた。
「った、痛っ…」
掴まれた腕を捻るように持ち上げられて、私は悲鳴に似た声を上げて顔をしかめた。
「何者だ!」
「還内府殿の連れです!離してください!そちらこそ、この騒動、何事ですか!」
捻り上げられる腕を庇うように身を捩りながらも、相手を睨みあげると、一瞬怯んだ顔を見せてから、再び腕に力を込めて持ち上げられた。
「還内府殿の名を出せば、怯むとでも思ったか!」
そんな事は思っていないし、事実を述べただけなのにこの仕打ち…、末端まで自分の存在は知られていないから仕方がないにしても、何かが起こるたびにこんな扱いを受けるのは、心身ともにすり減る…。
「あぁもう、離しなさい!一体何事なの!?」
同じことだと分かっていても、繰り返して問い掛けるが、相手は意に介さずに部下と思しき男に縄を持ってくるように指示を出している。
おかしい…、この騎馬隊以降、合流してくる軍が居ない。
辺りをキョロキョロと見回すけれど、撤退してきた割に、屋敷からの撤退を促す慌ただしい動きも見られない。
けれど、馬を残して屋敷の中へと出入りしている武者たちは、調度品などを持ち出して馬に括り付けている。
「離しなさい!それらをどうするつもりなの!?撤退するならば、物よりも先に人を促しなさい!」
叫ぶ私の声に、部下から縄を受け取った相手の唇の端が、蔑むように歪んだ。
今回の出陣は、有川君、知盛さんと共に、経正さんも同行してしまっている。
清盛さんは、屋敷の奥に引きこもって結果の報告を待っている筈だが、表の騒ぎは届いていないようだ。
こう言うのは、なんと言うのだったか…。
火事場泥棒…?いや、離反…?
縄で縛り上げられ転がされた私は、顔からぬかるんだ地面へと倒れ込んだ。
舐められているのか、胴と腕を共に縛られたが、肘から先は比較的自由にされていたので、ぐっと力を入れて上体を起こした。
ポツリ、と、曇天から雫が、泥で汚れた頬に当たって染みを広げた。
なんとかして中に居る人達に、この狼藉を知らせなければ!
「泥棒ー!!!」
声の限り叫ぶと、私から注意を逸らした武者が振り返り、勢いよく拳を振り上げた。
「貴様!邪魔をするな!!」
威嚇だけでは黙らずに叫び続ける私の頬に重い一撃が落ち、勢いのまま屋敷の塀まで転がって、ぶつかって止まった…。
口の中に鉄の味が広がっていく、鋭い痛みはガンガンとこめかみを叩き、目の前が真っ暗になった。
駄目だ、今ここで意識を手放したら…、有川君に合わせる顔がない…、屋敷やみんなは、私が守らないと…。
そう思うのに、力が入らずに、痛みで呻くことしか出来ない。
「う…うぅ、あり…か…くん…」
呼んでもここには居ないのだから、私が頑張らなきゃ…私が…!
暗くなる意識をなんとか立て直して目を開けると、屋敷の中から騒がしい音が耳に届き始めた。
私を殴った武者が、慌ただしげに周りに指示を飛ばして、馬に飛び乗っている。
逃したら…駄目だ…っ!
「どろ…ぼう!誰か…!捕まえてっ!」
「ああ、任せろ!」
走り去る馬たちに混じって、一頭が隙間を縫って走り抜けていった。
先頭まで追いつくと、鞘をつけたままの刀でリーダー格の武者の脇腹を鋭く突いた。
苦悶の呻きとともに蹲った武者から手綱を奪い、馬を止めると、自分が乗った馬を棹立ちにして止め、くるりと反転して刀を構えた。
彼の背後からは、騎馬の群れが迫ってきて、道を塞いだ。
慌てふためいて、踵を返そうとする者と、そのまま駆け抜けようとする者とで、混乱状態に陥った馬たちが、ぶつかり合い威嚇しあい、騎乗者を振り落とす馬なども出て、騒然となった。
その中を馬を小走りにさせて戻ってきた人が、私の前でヒラリと飛び降りてきた。
「大丈夫か!?」
騒動に気付いた兵士たちが、屋敷の奥から飛び出してきて、私たちの横をすり抜けて武者達の捕縛を手伝い始めている。
私は、目の前で片膝をついて、縄を解いてくれている彼を、呆然としながら見つめていた。
「大丈夫じゃなさそうだな、おい、しっかりしろ!」
切れた唇の端から流れる血を拭ってくれる彼の指の動きに、ピリッとした痛みを感じて、私は顔をしかめた。
「有川君…、どうして…」
「変な動きをしてる一軍があったからな…、念の為に追いかけてきてみたら、案の定だ」
急いで来たのだろう、彼の指は熱く、額は汗ばんでいた。
「っ、あーーー、痛いっ!!」
緊張から解き放たれたからか、一気に痛みが増えて、私は頬を押さえて蹲った。
「悪かったな、先生。助かった…」
「一体何が助かったの、私は何も出来なかったよ。これは有川君一人の手柄よ。」
痛い痛いと喚きながら、彼の胸を何度も叩いて八つ当たりをする。
ポツリ、またポツリと落ちてくる雨粒に混じって、俯いている私の下にも、水滴が地面に吸い込まれていく。
食べられる野草なんて、採りに行っている場合ではなかった、いつ何時、敵襲があるか分からない、味方だっていつ敵に回るか分からないのだし、今回は金目のものを奪って逃げようとしただけだったからまだマシで、人の命を奪って離叛する者たちだって、出得るのだ…。
「ごめん、ごめんなさい、ごめんね、ごめんっ…、もっと、しっかりしなきゃって、もっとちゃんとみんなを守らなきゃって、思ってたのに…、ごめん…!」
彼の胸を叩く気力も無くなって、そのまま胸に頭を預けて謝り続けた。
有川君の事だ、そこに転がっている籠と草を見れば、私が屋敷を離れてしまっていたことくらいすぐに理解るだろう。
責めればいいのに、何も言わずに私が黙るまで聞いてくれる、本人は認めないけれど、本当に優しい…。
パタパタと落ち続ける雫が段々と増え、汗ばんだ彼の額を雨粒が滴り落ち始めた頃、私はやっと顔を上げて、彼の濡れて張り付いている前髪をかきあげた。
「ごめん、面倒をかけて。この雨の中、また行くの?」
落ち着きを取り戻した、年上の先生の仮面を被って聞く私に、有川君は片膝をついたままの姿勢で首を横に振った。
「いや、あっちは知盛に任せてきたから、もう決着は付いているはずだ。俺はこっちを処理しなきゃなんねえ」
捕縛は終えている、主人を失った馬達が手綱を引かれて屋敷の厩舎へと連れて行かれる様子を親指で指し示して、有川君は立ち上がった。
「先生、立てるか?」
手を差し伸べてくれる彼に頷くと、私は自力で立ち上がり、籠と草を拾い集めた。
彼が、握られなかった差し出した手を見つめ、頭をかいたのを、私は見ていなかった…。
「彼らは、どうなるのかな…」
「さあな、おおかた…」
怨霊にされるだろう…、と言う言葉を飲み込んだのが分かった。
胸の中に苦いものが広がる。
あまり俯いていては、また心配をかけるだろうと思い、有川君を振り仰ぐと、彼の大きな手が私の頬を優しく包み込んだ。
それだけでも、ビリビリと痛みが押し寄せて、顔が歪んだ。
「しっかり冷やせよ。もう腫れちまってる」
「分かってるよ。大丈夫。あなたも…、やる事やるなら、ちゃんと着替えて身体を拭いてからにしなさい。風邪を引いたら大事よ。」
「へいへい。わあったよ、先生」
軽い調子で返事をすると、私の横をすり抜けて先に屋敷へと戻っていく。
そんな彼の元に、報告の為に幾人かから声がかかっている。
身体を拭く時間くらい、与えてあげて欲しい、彼はまだ十九歳の若者で、あなた達の重盛様でも、還内府殿でも無いのだから…。
痛む頬を押さえて顔をしかめながら、指示を飛ばしながら屋敷の中へと消えていく彼を追うように、私も屋敷へと戻った。
その日の夜、私は布団から抜け出して雨が降り続ける庭を、縁側で足を抱えて眺めていた。
ヒタヒタと足音が聞こえたが、振り向かずに、雨に打たれ、上下に揺れる葉を眺め続けていると、背中に温かみのある重みがのしかかった。
「なんだ、眠れねえのか?先生」
「有川君こそ、どうしたのよ。まだ寝てなかったの?」
「ああ。さっきまで、知盛や経正と話してた」
「そう、お疲れ様ね」
背中の重みを押し返して、今度は自分が寄り掛かかると、彼の背中に頭を押し付けて、空を仰いだ。
真っ暗な空から、灯りに反射する雨が揺らめいて消えていく。
「ほっぺた、どうなった?」
「心配させてしまったのね。まだ腫れているし、紫になり始めているみたいよ」
手当を手伝ってくれた人が、どうなっているのかを教えてくれたのは、何刻前だったか…、あの時より色がエグい事になっているかもしれない。
「無茶しないでくれよ…。拳だったから良かったけど、あれが刀だったら…」
あれが刀だったら…死んでいた…。
分かっている、思い返す度に心臓が縮んで震えが走る。
だけど…、あの時はそれを考えるだけの余裕が無かった…、いや、まだ実感があまり沸いていなかったのかもしれない、有川君のように戦場に立っているわけでは無い私には…、分かっていなかったのかもしれない…。
「本当に…死んでたかもしれないよね…」
足を抱いていた両手を顔の前にかざす。
横に置いている灯りの揺らめきではなく、細かく震えているのが見える。
「ここで死んだら、どうなるのかな…。元の世界に戻れるとか…あったりしないかな…」
軽口を叩く私の声は、微かに震えていた。
「ごめん、有川君の方が危ない場所に居るのに…こんな事一回あったくらいで…ごめんね」
「謝るなって。こんな事なんかじゃねえだろ」
「有川君に比べたら…」
「比べる必要なんて無えだろ…」
有川君が背中を放し、まるで抱きしめるかのような姿勢で、私の震える両手を握りしめた。
背中に、彼の冷えた胸の熱を感じて、ブリルと震えた。
「なあ、先生…」
「…はいはい、何でしょう?」
「俺の前でくらい、強がんなくても良いんだ。バレバレなんだから、肩の力を抜けって」
「…バレバレって…、酷いな、人がこんなに頑張ってるのに…」
ぶすくれて返事を返す私の声が、分かりやすく揺れて乱れていく。
「有川君だって、私の前では無理しないでいいんだぞ。もっと頼ってほしいし、弱い部分も君なんだから、守るよおー!」
ふふっと笑いながら言っているつもりなのに、息が詰まって上手く笑えなかった。
彼の手の中で震え続ける手を握りしめて、ギュッと自分を抱きしめた。
意図せずに私を抱きしめる事になった彼は、文句も言わずにそのまま力強く抱きしめてくれた。
「ごめんね、有難う。少しだけ、このままで…」
返事は無かった。
けれど、震えが治るまでずっと、更に強く、優しく、抱きしめ続けてくれた。
私は彼に何を返せるだろうか…、間違え続けている私は、彼に正しいお返しが出来るのだろうか…。
せめて、探し続けている春日と弟との再会を、願い、祈り続けている。
彼の大事な人達との再会を…。
そして、何故何の関係もない私が、彼のそばに居るのかと、考え続けている…。
[ 2/3 ][*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]
-top-