だと言うのに、結局恋だと気づいてしまった挙句、私はあいつの恋の応援者となってしまった。
非常に腹立たしいから、仙女と再び逢う日を夢見るあいつを応援しつつ、恋が破れて泣く時は私の胸の中で泣かせてやろうと自分に誓った。
そのままなし崩しにあれやこれやに持ち込んで、責任を取らせることも勿論考えている、当たり前だ、それ位の打算が無ければ、こんな…こんな救いの無い関係など…。
はぁ、と大きなため息と共に、子淑は読んでいた書簡を寝椅子に放り出した。
せっかく孔明に口をきいてもらって仕官した職を、先日辞してきた。
自分が女だと分かった途端に、扱いは使用人か下女か…、頭が自分よりも回ると分かれば、厄介払いに書庫整理をさせられ、更には酒の席で隣に座らせて酒を注げと…、お前にはこれくらいの価値しか無いと、そんな事を言われて黙っていられる自分では無い。
自分よりも遥かに無能な上司に嫌気がさして、殺意すら芽生えた。
このままでは本当に刺すな…と思ったから、上司の無能さを事細かに上奏して、職を辞してきたのだ。
実家に帰れば縁談が待っている、だからこうして愚兄の家に転がり込んだ次第である。
愚兄は、昼間から酒場でのんべんだらり。
本当に、仕事もせずに、呆れて物も言えない…。
そんなに仕事が嫌ならば、代わってやる…と言いたいが、それも喜んで代わられそうで癪だから絶対にするものか。
「大体だ。孔明は何故私を自分と遠い場所に仕官させるのだ。いや、いろいろな場所の情報を欲しているのは分かる、私は彼奴の協力者だ。だが、何故いつもいつも、近くが良いと言っているのに、それを無視して…。」
自分の能力ならば、きっと孔明の口利きが無くても仕官は出来る、が、孔明の力になりたいと言ったのは自分だ。
自業自得だ…。
孔明自身は、未だにどこにも仕官しないで気ままな暮らしをしていると聞いている。
が、それは噂で、色々なところで布石を打っているのは知っている、何も言われないけれど、分かると言うものだ。
私をあそこに置いたのも、布石、と言えなくも無い。
今頃は無能の元上司はきっと首を切られていることだろう、物理的に切られていないことを祈るのみだが…。
子淑は、放り出した書簡を再び持ち上げた。
何もやることが無いから、寝椅子に寝転がって日がな一日書簡を読みふけっているが、これではのんべんだらりの愚兄と変わらないのでは…。
どこか、どこでも良いから仕官すべきか…。
戦乱のこの世の中で、人材はいくらでも必要だろう。
曹孟徳や孫仲謀が台頭してきてから、世の中は大分暮らしやすくなってきた。
そこに、劉玄徳が最近では突出してきている。
勢力的にはまだ弱小だが、これからを担うだけの勢いを持っている。
それに、あそこには女の武将が居ると聞く、最近では軍師が来て、それが女だという噂もある。
女でもきちんと登用してくれるのならば、自分も登用してもらえるだろう。
…何故だか、孔明がそれを良しとしてくれないのだが…。
はぁ…。
持ち上げた書簡を眺めて、意を決したように身体を起こした。
今は考えるよりも行動だ、このまま兄の元で腐るよりも良いだろう。
子淑は荷物をまとめるために自分用に陣取った部屋へと向かうことにした。
「士元、居る?」
表から、気の抜けた声が聞こえてきたのはその時だった。
子淑は扉を開けて声の主を招き入れた。
「やあ、久しぶり。」
片手を上げて和かに挨拶をしてくる男に、子淑は溜息を吐いてから頷いた。
「なに、人の顔を見て溜息なんて吐いて。溜息が出るほど良い男だった?」
「…ああ、そうだな。」
昔はな…、と心の中で付け加えて、子淑は訪ねてきた人物、孔明を居間に置いて奥へと引っ込んだ。
一体いつ、こんなになってしまったのか…、亮が孔明と名を変えて、草庵に篭って、今に至るまでの間のどこらへんだったろうか、いつの間にか思い詰めるような表情から、軽くヘラヘラと笑い、物事をのらりくらりとやり過ごすような人間に変わっていた。
それでも、打っていく手の一手一手が上策で献策で、あぁ、これは真意を悟らせないための仮面か、と思おうとしたが、こっちの方が本性のような気がしてならない。
昔が幻だったのでは…と思えてくる。
茶の用意をして居間に戻ると、孔明は椅子に座り、頬杖をついて辺りを見回していた。
「愚兄なら。」
「うん、分かった。」
それだけで意思疎通が図れるのは、ひとえに兄の為人のおかげか…。
辺りを探っていた孔明の視線が、お茶を注ぐ子淑の手に注がれている。
「何を見ている。」
「士元なら、ここでお茶じゃなくてお酒が出てきたんだろうな、と思って。」
「ああ、そうだろうな。」
茶器を差し出して、子淑は孔明の向かいに座った。
「酒が欲しければ、愚兄がいる時に来い。」
「いや、別にお酒が飲みたかったわけじゃ無いから。」
「うん。」
酒が飲みたければ、夜に来ただろう。
話があるから、まだ酔っていない…事もある昼に来たのだろう。
まぁ、大体が飲んでいるが。
「愚兄は使えない。私が代わりにやろう。」
孔明を茶器越しに見つめて、子淑が厳かに言う。
けれど、孔明が真意を悟らせない笑顔で、手をひらひらと振った。
「嫌だなぁ、僕はただ旧交を温めに来ただけだよ。」
「お前が旧交を温める為だけに訪れることなど、未だかつて無かっただろうが。」
「えー、そうだっけ?もう忘れちゃったよ。」
「何を言うか…。」
のらり、くらり…、何を考えているのか全く…。
「最近は何をしているのだ、劉玄徳からの仕官要請を断ったそうだな、それも、三度。」
「うん。だって、面倒臭いじゃないか。なんで君がそんな面倒臭い仕事を欲して足掻いているのか、そっちの方が分からないなぁ。」
孔明の軽い口調と、色々な場所から仕官要請されているのに、どこにも仕官しないいい加減な姿勢と、そんな奴から仕事なんかしない方が良いのに、といった内容を告げられて、子淑のこめかみに血管が浮いた。
「…女はお前や愚兄のように根無し草が出来るような世の中じゃなくてな、仕官しなければ後に残るのは結婚して子供を産んで育てる道しかない。そんなのはごめんだな。」
「それが普通なんじゃないの?」
「普通なんて真っ平御免だ。私は私がやりたいようにやる。それが出来るだけの能力が私にはある。」
昔から、兄は神童だと騒がれていたが、それ以上に賢かったと自負していた私には、そういった評価は全く無かった。
女なのだから、勉学に励むよりも、炊事家事裁縫諸々に精を出してほしいものだと、散々言われた。
けれど、自分がやりたかったのは、勉学だった。
どうして人は争うのか、どうして同じ国だというのに領土を主張するのか、どうして税金をきちんと納めているのに、足りないと言われなければいけないのか…、どうして偉いと言うだけで人の事を踏みにじることが出来るのか…、どうして女と言うだけで、勉強をしてはいけないと言われなければいけないのか…。
私はまだ、その理由に至っていない!
私の言葉と、考え込んで唇を噛む様子に、孔明がふ…と笑みを深くした。
「…なのに、この間紹介した仕事を辞めて、兄の家に引きこもり…ねぇ。」
空になった茶器を指で弄びながら、孔明があらぬ方を見ながら言う。
こんの…野郎…。
歯ぎしりをしたいのを我慢して、何食わぬ顔でくるくると回る茶器に、お茶を注ぎ足してやる。
揺れる茶器を伝って孔明の指に熱いお湯がかかった。
「あっつ!!」
「ああ、すまない。お茶を要求されているとばかり。」
「ちょ、君ねぇ…、火傷するでしょ。」
「そうか。」
赤くなった指を目の前に差し出されて、子淑はその指にふぅふぅと息を吹きかけた。
「…普通、濡らした手巾を当てるとかさぁ…。」
「そんな面倒臭い。火脹れになるほど熱い湯ではないはずだ、これで十分。」
再びふぅふぅと息を吹きかける子淑を、孔明は頬杖をついて、呆れ顔で眺めた。
「こういうこと、よくしてたの?」
孔明の台詞に我慢の限界、私の眉尻が跳ね上がった。
「よくしてたか・・・だと?」
「え、なんか怒ってる?」
「怒ってるか、だと?ああ、怒ってるぞ。孔明、お前は私を馬鹿にしているのか!?前回、お前は私に県令の補佐の仕事だと言ったな。」
「え、うん。言ったね。」
怒りの形相で孔明に躙り寄る私から逃げるように、こうめいは椅子の背もたれ限界まで後ろへと下がった。
「補佐をさせてもらえたのは初日だけ、私が女だと分かった途端に、ただの茶くみのような扱い!やれ茶を持ってこいだの、肩を揉めだの、挙句酒の席に呼んで酌をさせて、人の腰に手を回して引き寄せるなど…、私が許せると思うか!?」
「…いや、お茶汲みのことじゃなくて…。」
勢いに気おされて小さくなった孔明の声など、今の子淑には届かない。
「そうだ、思えんだろう!熱燗を頭から浴びせたうえで、腹に膝蹴りをかまして気絶させて先に帰ってきた!その足で上司の不正を暴き、書簡に認めて郡に送り、私は職を辞してきた。それが、今、ここで、暇を弄んでいる理由だ!茶くみをよくしていたか、だと!?ああ、していたさ!それがお前の望みだと思ったから、数ヶ月は我慢したさ!だが、あいつは尻尾を出した!これで良かったんだろう!?どうせお前が思い描いていた通りなんだろう、だからこそここに来た、そうだろう!」
「あー…、うん、ごめんね。でも、君なら体力の無いすけべ親父くらい何とでもできると思ってさ。」
身体の前に両手を挙げ、どうどう、と抑えるように動かす孔明を、じっとりぎっとりと睨みつけてから、私は肩の力を抜いて椅子にどかりと座り、腕組みをした。
「どうとでも?ああ、出来るな。膝蹴りで終わって感謝してほしいくらいだ。あの場でもしあいつが立っていたとしたら、金蹴りくれてやっていたところだ。」
鼻息荒く吐き捨てると、孔明が困ったように眉尻を下げて苦笑した。
「…女の子なんだから、金蹴りなんてはしたない言葉、使わないの。」
こんな時に限って女扱いされても、嬉しくもなんともない…。
「ふんっ!」
鼻で笑い飛ばして、孔明の茶器に改めてお茶を注ぎ足した。
ついでに自分の茶器にも注ぎ、一気に飲み干す。
「金蹴りなんてことを実行したくなるような親父の元に仕官させたのはお前だったような気がするが?」
「うん、そうだね。それは認めるよ。君を抱き寄せるなんて、本当に不運な親父だったね。」
孔明の言葉は、いちいち子淑を刺激する。
「あいつは自業自得だと思うが!!?不運なのは私!!…はぁ、いや、もういい。で、何の用事だ?どうせお前の事だから、私がここに居ることも織り込み済みなんだろう、私たちに今度は何をさせたい?」
いちいち取り合っていては、話が一向に進まない。
孔明は昔から、私を怒らせる天才だ、人の事を冷静では居られなくする、それは交渉などに役に立つ能力だが…、私相手に使ってほしくないというものだ。
子淑が話を変えたことで、孔明が瞳を一度見開いてから、微かに口元を緩めた。
「いや、本当に旧交を温めに来たんだ。君がここに来ていることは勿論織り込み済みだよ、だけどごめんね、今回は仕官先は用意していないんだ。自分で探してくれるかな。」
「…それは構わないが。」
孔明の瞳の奥が笑っていないことなど、お見通しだと言うのに…、いや、それすらも孔明はお見通しなのだろうな…、話すつもりは無い…と言う事か。
「うんうん。じゃあ、僕は士元のところに行ってくるよ。」
お茶を飲み干して、孔明がわざわざ子淑の手に茶器を乗せた。
「見送りはいいよ、勝手知ったる他人の家ってね。お茶、ご馳走様、美味しかったよ。」
立ち上がり、一度腰に手を当てる孔明の後ろ姿は、何度見ても…腕を掴んで引き止めたくなる。
一度去ると、再び会うのに数か月…、会っている時間は一瞬なのに…。
「愚兄と飲んだ後はどうするんだ、泊まるなら…」
「宿を用意してあるから。」
「わざわざお金をかけずとも…」
「妙齢の女性が居る家に泊まれって?」
「同じ部屋で寝るわけでは無いだろう。」
「…あのねぇ。」
背を向けていた孔明が、こちらを振り向く。
顔をのぞき込んで、わざとらしいしかめっ面を見せてくる孔明、それほど背が高い方ではないが、自分よりはやはり高い、少し腰を折って視線を合わせてくる孔明に、男を感じてドキドキしているなど、悟られたく…無い…。
「僕がここに泊まったら、君、夜這いに来るでしょう。」
「…それの何がいけない?」
「いいよ、大歓迎だよ。お酒を飲んで大騒ぎして大立ち回りして、挙句覚えていませ〜んって、何度も何度も…、いい加減勘弁してほしいよね、その度に青あざが増えるのも…さ。僕は筆よりも重いものを持ったことが無いんだ、君よりも腕っぷしが弱い、だから、ね、分かったね。」
何が分かったね、なんだか。
それで何を分かれと?自分の非力自慢をしてくれたところで、今更だ。
そんな事は織り込み済みで恋に落ちたんだ。
…そこは関係ないが。
要は、酒の面倒を持ち込んでくれるなと…。
含みを持たせた言い方に、子淑は膨れ面をして見せた。
「大騒ぎは覚えているが、大立ち回りなどした覚えはないな、青あざが増える?孔明、お前も酔っぱらってどこぞにぶつけているだけなんじゃないのか?」
「ああ、そう。君がそう言うならそれでも良いよ。」
孔明が頬を引きつらせながら笑顔を作った。
「だけど、あの約束だけは絶対に守る事、いいね、分かった?」
約束…。
むすっと押し黙った子淑に、孔明がもう一度、「分かったね?」と念を押して、子淑は仕方なく頷いた。
「うん、じゃあそういう事で。じゃあね。」
手をヒラリと振って、孔明は部屋を出て行った。
開いた扉から風が舞い込んで、子淑の前髪を揺らした。
約束…、けっして家の外ではお酒を飲まないこと、けっして家族以外とは飲まないこと、家族以外で一緒に飲んでいいのは孔明だけ、約束を破ったら、痛い目を見るのは自分だよ、と…初めて飲んだ翌日、ズキズキと痛む頭を抱えながら、孔明のお説教をくどくどと聞かされたっけ。
楽しく飲んでいた記憶しかないのだが、起きたら自分の部屋で寝ていて、孔明の部屋に行ったら、寝ている愚兄と孔明の身体に青あざが出来ていた。
二人で取っ組み合いの喧嘩でもしたのか?と聞いたら、愚兄からものすごい剣幕で怒られた。
孔明は、静かに怒りを燃やし、あったことを一から十までくどくどと説明し、お説教が始まり、そして約束に至った。
以来、飲むときは必ず三人か、孔明と二人。
兄と二人で飲むのは、兄が頑なに拒否するから実現していないが、兄と飲もうとも思わないから、それはそれで別に問題は無い。
「酒…、好きなんだがな…。」
孔明が一緒に飲んでくれないと、酒にありつけない。
だと言うのに、いつの間にか一緒に飲んでくれなくなった、家に泊まらなくなった、夜這いだー!と、酒瓶を片手に、孔明の部屋に押し掛けることができなくなった…。
時が経つにつれて、孔明との縁が薄くなっていっている気がする…。
いや、きっと気のせいではない、遠ざけられているんだと思う…。
「愚兄よりも使えると思うんだがな…。」
子淑は茶器を洗い終えると、自室へと向かった。
寝台に放り投げておいた上着を掴み、窓の外へと視線を移す。
だいぶ陽が落ちてきている、暗くなるのはあっという間だろう。
だが、世闇に紛れる頃には話は終わってしまっているかもしれない、闇に紛れる事は出来ないが…。
意を決して、子淑は上着を羽織ると、愚兄の居そうな酒場へと向かった。
孔明は何でもないように言っていたが、愚兄に何かをやらせる気だ。
その何かは、不穏な空気を放っている曹孟徳と孫仲謀と関係しているに違いない、そこに劉玄徳も加わっていると聞く。
孔明が自ら動く気になったのも気になる…。
ここを逃したら、本当に孔明との縁が途絶えてしまう、そんな事にはならせない…!





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