子淑は、孔明に触れられた髪を掴み、ぐっと引っ張った。
簪が歪み、緩く纏めた髪がバラバラと解けるが、構わずに頭を振った。
カラン、と小さな音を立てて、簪が地面に落ちた。
沈みかけた太陽は既に家々に邪魔されて目視できなくなっている、大きく伸びた影に目の前を真っ暗にされて、このまま地の底まで落ちていきそうな錯覚さえ覚えて、慌てて地面に落ちた簪に触れた。
「大丈夫だ、ちゃんと…固い。」
簪に触れた、けれど、地面がきちんと存在していたのかを確認したかったのだ。
こんな事で揺らぐなんて…、なんて自分は弱かったのだろう…。
顔を覆って、噛み締める歯の隙間から息を吐き出した。
泣く…?そんな事はしない、泣くほどの何も起こっていないのだから。
けれど、まさか、本当に…。
確かめなければ……。
「仙女が、戻ってきた…?」
何故自分を頑なに玄徳軍に近づけさせないのか、理由がまだあったのだ。
危険だから、弱小だから、時期じゃないから、のらりくらりとはぐらかす孔明の言を全て信じていたわけでは無い。
他に何かがあるはずだと、そう思っていたが…。
「そうか、仙女が…。」
一体、どんな女なんだろうか。
子供の頃に会ったきりならば、今頃はおばさんになっていてもおかしくない。
「…あれ?でも…?」
女武将か、女軍師か、そのどちらかなのかと思ったが…、女武将は若いと聞いているし、女軍師は…孔明の弟子だと言っていなかったか…?
「いやでも、孔明の態度は明らかに動揺していたし…。」
だが…。
仙女の事など、自分も孔明も、一言も言っていなかった…。
「ん〜〜〜、なんか、よく分からん!!」
しゃがみ込んだまま頭を掻きむしり、子淑は空を仰いだ。
確かに、孔明の後ろに強く瞬く星を見たのだ。
それが、孔明の運命を強く動かし、基盤を固める象徴だと…思ったから…、あいつが基盤を固めるなんて、仙女の再来以外有り得ないと、そう思ったのに…。

『君の星読みは、学問じゃないね。』
不思議そうに見つめながら問われた、孔明の今よりも幼い声が脳裏に甦る。
『勘?って言うのかな、僕の知っている星読みと、大分違うみたいだ。』
『勘だと?…私は教わった通りに読んでいるつもりだが。』
『ええ?だいぶ違うよ!その星は僕じゃないし、あの星は天を象徴するから、天子様の事でしょう!?』
夜空の星を指さしながら、孔明があれがどうで、それがどうで、と説明してくれるが、どうにも理解が出来ない、星読みは孔明にまったく歯が立たないどころか、先生にも匙を投げられた。
孔明と兄と三人で、よく川岸に腰かけて夜空を眺めて星読みの復習をしたが、兄は酒を浴びてさっさと寝てしまい、二人でああでもない、こうでもない、と言い合うが、読み方が一致したことは終ぞ無かった。
『そうだな。』
『そうだな…て、じゃあ今のはどうしてそうなったの?』
『……さあ…?でも、あっているだろう?』
読み方は一致しないのに、結果はそう違うものでも無かった。
『…大きく間違っていないから不思議で仕方ないんだよ。』
『じゃあ、ただの勘じゃない。女の勘だ。』
勘だと認めてしまうのは悔しかったけれど、孔明に負けるなら仕方がないと思えた。
それだけ、努力を惜しまず精進をしていた事を知っていたし、自分は孔明の傍に居たいから共に夜空を眺めたが、星読みよりも損得勘定の方が得意だったから。
『女の勘て…。でも、大きく間違ってはいないけど、あっているわけでもないからね。』

そうか、大きく間違ってはいないけれど、あっているわけでもない…のか。
ならばやはり、何が間違っていなくて、なにがあってるわけじゃなかったのか、確かめに行かねば。
「孔明、お前は私を見誤っている。」
呟いて、すっと立ち上がった。
空が少しだけ近くなった。
どんなに手を伸ばしても届かない空と違い、孔明は手を伸ばせば届く、触れることのできる人間だ。
空だって、立ち上がれば近づく。
孔明にだって、努力を続ければ近づけるはずだ。
「孔明、私はな…。」
握っている簪を口に挟み、髪を纏めて後頭部に持ち上げると、簪を挿してくるりと回転させ、ギュッと強めに結い上げた。
「お前が仙女に失恋した時に、お前を慰めて恋人の座に収まろうとしている、打算的な人間だ。」
失恋をすることを前提として考えている、こんな汚い人間なんだ。
協力をすると言いながら、再会したかもしれないことに動揺して、お前が仙女と恋仲にならないように邪魔をしなければと考えている。
お前が幸せになるならば、協力を惜しむつもりは無かったが、お前は私の協力を不必要だと判断して、私を手放した。
ならば、好きなようにさせてもらう。
「私を野放しにした事、後悔するがいい。」
家路を急ぐ人波に紛れて、子淑も家路を急いだ。
こうしてはいられない、劉玄徳殿の元へ行く準備に取り掛からねば。
子淑は、背筋を伸ばし、後ろを振り向く事無く、闇に沈んでいく街の中、一筋の光に吸い寄せられるように歩いて行った。





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