子淑は立ち止まると、結い上げていた髪を解いて、苛立ち紛れに頭を掻きむしった。
酒場から家へと戻る途中に、気が変わってお酒を買ってきたのだが、兄はすぐには帰ってこないだろう。
一人で飲むことは禁止されていなかったはずだが…、いや、孔明との約束を守らねばならない道理などない、飲んでしまえばいい。
家で飲むんだから、問題無い。
だが、約束を破ってしまったら、それで終わりだという気がするんだ。
裏切ったら、それで何もかもが終わる…。
期待に応え続けるのも、大変なんだからな…。
苛立ちが増す。
露店が立ち並ぶ大通りの隅で、酒瓶片手に髪を解いて振り乱している女…いや、男の格好をしているから男と思われているかもしれないが、そんな不審な人物が、商店の壁を突然殴り付けたら…流石に捕縛されるだろうなぁ。
殴りたい衝動を抑えて、壁に手をついて、深く息を吐き出してから、限界まで息を吸い込んだ。
「……っはぁ!!!」
思い切り吐き出して、やるせない気持ちを振り切ると、子淑は乱れた髪を手で梳き始めた。
右耳の下で軽く纏めて簪で留めると、毛先をゆっくりと指で梳いて無造作に垂らした。
商店の壁に背をつけて、通りを眺める。
焼き饅頭を売る店、串焼きを売る店、色とりどりの果実水を売る店など、客引きの声に足を止めて、会話を楽しむ買い物客たちで賑わいを見せている。
暮れかけた空が紫色へと変化していくが、軒先に吊るされた灯りが、通りにそれなりの明るさをもたらしている。
皆、食べたい物を買って、家路を急ぐのだろう。
飲めない酒など、買うんじゃなかった。
どうせ、愚兄の口に入って終わりだ。
酒瓶を抱きしめて、蓋越しにふんふんと匂いを嗅いでいると、人の気配が隣にするりと寄ってきた。
「まさか、さっきの約束をもう破るつもりだったのかな?」
「匂いを嗅いではいけない、という約束はしていなかったと思うが。」
「うん。匂いまでは禁止していないよ。」
酒場で盗み聞きをしたが、聞かれていることなど孔明にはお見通しだっただろう。
どうせ追いかけられて、止められる。
私の行動は、孔明には筒抜けだから…。
だから、家に帰らずに少し時間を潰したというのに…。
「私が愚兄の代わりに行ってこよう。」
どうしてここが分かったのか?など、聞いたところで明確な答えが返ってくることなどない、ならば、さっさと本題に入ってしまえばいい。
こうして、無駄な時間を共に過ごしてくれるだけで、有難いんだ。
…無駄な時間、か…、我ながら自分を刺すような表現だったな。
答えを待つ間、自嘲した笑みが口からこぼれた。
「僕の答えなんて、君にはお見通しだと思っていたけどな。」
「直接聞きたい時もある。でなければ、強行するだけだ。」
「…じゃあ。」
子淑の声が暗く、落ち込んでいるのだと告げている。
ごめんね…、と、孔明は再び心の中で苦笑した。
「だ〜め。今回は、本当に駄目だよ。」
「いつだって、駄目じゃないか。」
「うん。適材適所。今回は士元じゃないとね。君は真面目すぎて、この件には不適当なんだ。」
酒瓶を抱きしめ直す子淑の隣で、孔明が頭の後ろで手を組み、すぐに解いて天を指さした。
「星が瞬きだしたね。もう、昼は終わりだよ。」
「…そうか。もう、終わりなんだな。」
空を見ず、子淑が繰り返した。
その言葉の響きで、子淑が孔明の言っている意味を悟ったと伝わった。
そう、終わりを告げるべき時が来たんだ、これまでと同じようにはいかない、僕も、君も…。
孔明は、一つ瞬きをすると、視線を子淑へと移した。
俯いて酒瓶を抱きしめている姿は、もっと幼かった頃、自分に想いを告げて、ただ好きでいることを許してほしい、と願った少女の姿と重なった。
「うん。もう…終わり。」
あの時、自分は、応えられないけれど、それで良ければ…と答えたのだったか。
もう、これ以上希望を残しておくことは、彼女にとってとても残酷なことだろう。
自分と同じこの想いは、可愛い妹にはさせられないから…。
「なら…。」
子淑が孔明を見上げて、目が合った。
強い意志を秘めた瞳に、胸が鼓動を打つ。
「殴らせろ。」
「やっぱり、そう来たね!嫌に決まってるでしょう!」
この瞳に見つめられた後、良い思いをした事がない!
「っち…。」
舌打ちをして目を逸らした子淑の眉間に皺が深く刻まれている。
ごめんね、そう口に出来たらどんなに良いか…。
いや、それを伝えることで軽くなるのは、自分の心だけ…か。
孔明は「ふむ…。」と口元に手を当てて一瞬の思案の後、子淑の頭に手を置いた。
「じゃあ、もう一つ、約束をしよう。」
「…これ以上私に何の制限を設けさせるつもりだ?」
「制限なんて設けた覚えはないよ。」
それは、君を守るものだから。
「どの口が言うか…。」
唇を尖らせて言う子淑が、孔明を睨むように見上げた。
孔明越しに、星が強く明滅していた。
子淑は、それを見て目を見開いた。
「今後、夜這いだ!と言って男の部屋に夜、訪ねていかないこと。僕の部屋も、勿論、士元もね。兄だとしても、夜に訪ねていくのは、もう辞めようね。」
「…孔明……。」
「君のためだよ。適齢期を過ぎた女性が、いろんな男の部屋に出入りしているなんて噂がたったら大変だからね。」
孔明の言葉は一応耳には入ってくる。
頷くだけ頷いて、子淑は夜空へと変化を始めている空の薄闇に目を凝らした。
「子淑?」
「…孔明、私は好きところに仕官していいんだな。」
「え?うん。良いよ。って、今の話、聞いていたの?」
「聞いていたよ。分かった、夜這いは今後しない、誰とも酒を飲めないのだから夜這いをする意味がない。」
「うん。…うん…?」
やっぱり、夜這いの意味が違っている…、そう思いはしたが、今後しないと言うのだから、指摘しないでおこう。
苦笑を顔に出さないように押し込めて、うん、と頷いてその場を離れようとした孔明に、子淑が告げた。
「ならば、私は劉玄徳殿のところへ行く。」
「…あ〜〜〜、いや、それは、やめた方が…。」
「好きな場所へ行けと言ったのはお前だな。」
「うん、言った。けど、そこはどうかなぁ?」
口を濁して誤魔化そうとする孔明に、子淑は瞳を眇めて、鼻に皺を寄せた。
「あそこには、女武将が居る、軍師も、女だと聞いたぞ。」
「!?そう、よく知ってるねぇ。」
一瞬声が揺れた。
くそ、もっと早く気付いていればよかった…、どこかご機嫌に見えた孔明の様子の理由が、これで分かったというものだ。
「軍師はどうやら、お前の弟子だそうだな。」
「それも知ってるなんて、噂って怖いねぇ。」
「そうだな、噂は怖いな。私はお前から直接弟子を取ったと聞いたことがなかったから、驚いたぞ。」
「そうだよね。僕も弟子を取るとは思っていなかったからねぇ。」
一瞬の動揺だけで、すでにいつもの飄々とした孔明に戻っている、それが、何か含むところがある証拠だと、付き合いの長い子淑には分かる。
「うむ。分かった。ならば、自分で確かめる。」
「劉玄徳殿は確かに立派なお方かもしれない、けれどまだ領土も持たない弱小勢力だよ、君が実力を発揮できるような場面は無いんじゃないかな。」
「大丈夫だ、問題ない。心配感謝する。女性の登用を行っている方だ、きっと私の事も適切に扱って下さるはずだ。…お前と違ってな。」
壁から背を浮かせると、子淑は抱きしめていた酒瓶を孔明へと突き出した。
「餞別だ。今までの事、感謝している。お前の意図は理解した。しかし、決別した以上、私がお前の望むとおりに動かなければならない道理はなくなった。これからは好きに動かせてもらう。」
押し付けられた酒瓶を受け取って、孔明が頬をひくりと引きつらせた。
「では、急ぐからここで失礼する。ああ、家まで送らなくて結構だ、こんな時間に男と二人で歩いていては、どんな噂がたつか分かったものではないからな。」
「…うん、僕の言った事をちゃんと理解してくれていたみたいで、安心したよ。」
力の入らない笑いをもらしながら、孔明が子淑の髪を一房掬った。
「伸びたね。」
「切る暇が無かったからな。」
官吏として働くために、男装をして髪を切った子淑を見たときは、声が出なかった。
そこまで官吏になりたいと思っていたとは、知らなかった。
ただ自分の賢さをひけらかしたいだけの、自己顕示欲の強い女の子だとばかり思っていたから。
寄せてくれる好意も、だと言うのに仙女を待つ自分に協力してくれるという矛盾も、本気ではないからだと、高を括っていた。
信じてくれる人が居ると、力が湧く。
けれど、何故信じてくれていたのか全く分からなくて、一体どんな女の子なんだか…と、計り兼ねていた。
ただ、真っ直ぐなだけなんだと、男の姿になっても、背筋を伸ばして前を向いている子淑を見て、理解した。
まるで、自分を見ているようで、痛かった…。
あぁ、だから遠ざけたかったんだ…。
君のためだなんて言いながら、僕は自分の姿を見たくなかったから…。
孔明の指から、子淑の髪がするりと溢れて落ちた。
「君の成功を祈っているよ。」
「祈ってもらわなくとも、私は成功する。」
子淑の毅然とした言葉に、孔明は瞳を閉じて、静かに微笑んだ。
「そうだね。うん。知っているよ。」
まさか、遠ざけるつもりが、一番近くに来る事になるなんてね…。
君が自分で選んだその道は、君の成功に繋がっているよ。
言葉には、しなかった。
言わずとも、彼女は自分の手で成功を引き寄せる力があるから。
ただ…、落ちない星ではないから、だからこそ、心配だったんだけど…ね。
瞳を閉じて、思考に耽る孔明の手に、冷たい何かが触れた。
目を開けて確認すると、赤く色づいたままだった指に、濡れた布が置かれている。
横に視線を移せば、子淑の去っていく背中が見えた。
薄闇に包まれつつある世界の中で、その背中は記憶にあるよりも小さく見えた。
「わざわざ用意してくれたんだ。」
自分に見つからない方が良いと思っていただろうに…。
ぷん、と香るのは、火傷に効く薄荷の香り。
清涼感ももたらすその香りを胸いっぱいに吸い込んで、
「あーあ、惜しい人材を手放しちゃったなぁ。」
布の貼られた指を左右に振りながら、孔明は嬉しそうに呟いた。





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