な、ん、だ、こ、れ、は、!、!、!
子淑は、孔明の承認が必要な書簡を持って孔明の執務室を訪れて、そのまま回れ右をした。
背後で閉まる扉の乾いた音を耳に、その場でしゃがみ込んで頭を抱えた。
今、私は何を見た?
…あれが、孔明?
…いや、確かにあれは孔明だ、そうだ、ああいう顔だ、ああ、そうだ。
だが…、だが…!!
子淑は立ち上がり、再び執務室の扉を開けて中へと入った。
そこには、執務机に着き書簡を睨んでいる孔明と、弟子用の机で書き物をしている軍師殿、花が居た。
「子淑、入る時は扉を叩いてから入ってください。」
こちらを見ずに唇を尖らせて言う孔明。
その何事も無かったかのような態度に誤魔化されたい気持ちはあるが、自分の脳裏に既に焼き付いてしまった。
「おい、孔明…。」
つかつかと歩み寄り、書簡を差し出して顔を近づけると、ボソリと呟いた。
「軍師殿に何をしていた…。」
「承認が必要な書簡はそこに並んでいるから、そこに重ねておいてくれるかな。」
子淑の問いを無視して、書簡を睨んだまま筆を執る孔明に、子淑は鼻の頭に皺を寄せた。
「今すぐ承認していただければ、益州攻略への出立を早める事が出来ますが?」
「うん、でもみんな重要だからね、それだけを特別扱いは出来ないよ。」
事務的な反応しか返さない孔明に不満を感じ、子淑は机に身を乗り出した。
「軍師殿が遠くへ行ってしまうのがお寂しくていらっしゃるのですか?ならば、違う者を行かせれば良い。」
花には聞こえないように言うと、孔明が嘆息して顔を上げた。
「そんな訳無いでしょう。益州行きは彼女の望みだよ。それに、玄徳様にとっても必要な事。僕が反対する理由が無いでしょう。」
「愛しい姫を遠くへ行かせたくないと思うのは、世の殿方の常では無いのか?」
「可愛い弟子ではあるけど、愛しい姫ではないからね。それに、たとえ愛しい姫だったとしても、その人の望みを妨害するような愛情を正しいとは思っていないよ。」
そう言って書簡へと再び視線を戻した孔明の、ぴょんと飛び出たくせ毛を掴んだ。
「っだ!子淑!?」
「なら、何故そんなに切なそうに見ていた?愛しい人を、壊れ物を大事にするような、そんな表情で…触れたければ触れればいいのに、途中で手を引っ込めて…。」
胸が詰まって、それ以上言葉を続けられなくなって、子淑は手を放した。
そして、整えるように、労わるように髪を撫でつけてから身を放した。
「良い、答えなんか聞きたくないし。引っ張って悪かった。そのひょこひょこ揺れる髪に異常に腹が立って毟ってやりたくなっただけだ。」
孔明の顔を見ることが出来ず、下を向いたまま言われた場所に書簡を置くと、子淑は孔明に背を向けた。
すると、こちらを心配そうに伺っていた花と目が合った。
「すまなかったな、大事な師に無体を働いた。」
「…い、いえ。」
戸惑うように首を振る花を見ていて、子淑は胸に重石を乗せられた気分になった。
孔明は、こういう可愛らしい娘が好きなのか…。
愛情や恋情じゃ無いと言うが、弟子にする程度には情が沸いたという事だ。
仙女もきっと、綺麗や荘厳という感じではなく、可愛らしい感じだったに違いない…。
「あの、子淑さん?私の顔、何かついてます?」
「普通だが…どうかしたか?」
「いえ、そんなに見つめられると、恥ずかしいんですけど…。」
目を泳がせた末に頬を染めて俯いた花の様子に、子淑は腕を組んで「ほぅ…。」と頷いた。
「ちょっと子淑、うちの弟子を誘惑しないでくれるかな。」
背後から孔明の不機嫌そうな声が聞こえてくるが、子淑は無視して花に近づいた。
「見つめられると恥ずかしいものか。」
「え、はい、普通に恥ずかしいです。」
「そうか…。そうなのか……。」
ふぅん、と呟く子淑に、花が首を傾げて見つめ返してきた。
「子淑、暇なのかな?」
再び、孔明の声がするが、無視を続けることにした。
「私はお前に見つめられても別段恥ずかしくないが…?」
「え?あの、人によって違いはあると思いますけど、私は恥ずかしいです。」
「そうか。そうか…。」
「え、あの…?」
「可愛いものだな。」
「は、はい!?」
「子淑?」
子淑の言葉に、先ほど以上に顔を真っ赤にした花が硬直した。
子淑はそれを確認すると、孔明を振り返り、珍しく興奮した様子で大きく頷いた。
「孔明、お前の弟子、私が貰ってもいいか?」
「なに?」
「ええ!?」
孔明の眉尻が上がった。
「可愛らしいじゃないか。お前が可愛がるのは腹が立つから、私が可愛がってやる。」
「あのねぇ、子淑…。」
眉間を揉み解すようにして、孔明が盛大な溜息を吐いた。
「貰うってねぇ、どういう意味で言っているのかな?」
「私の助手にする。私も一人でなかなか大変でな。お前には他の人間についてもらう。」
「そんな訳にいきません。」
「何故だ?弟子をやめろとまでは言わない。むしろ、弟子の一人立ちだと喜んでやればいい。」
「あ、あの、私は…。」
おろおろとした声が花から漏れるが、孔明が目で制して黙らせた。
「弟子は玄徳様に仕官しているわけでは無いから、僕の手伝い以外はさせられないよ。強制的に仕官させてしまうことになるから。」
「別に仕官しろとは言わない。手伝ってくれれば良い。」
「なら、弟子以外を手伝いに回すよ。」
「使えない人間は要らない。」
「使える人間を送るよ。」
頑なに断る孔明の態度に、子淑は自分が意固地になっていくのが分かったが、止めることができなかった。
「いや、この子が良いんだ。この子以外は必要ない。」
「子淑…。」
無理なことを言っているのは分かっている、孔明が正しいのも理解している、けれど孔明が大事にすればするほど、断れば断るほど、少しでも邪魔してやりたいと、そうねじ曲がった心が思ってしまうのだ。
子淑は拳を握り締めて、目を閉じて三回深呼吸した。
深呼吸の間、頭の中で自分の中の醜い自分を何度も殴りつけた。
可愛らしい子が羨ましくて、そんな子を孔明から遠ざけたくて我儘を言うなんて、我ながら馬鹿なことをしている…。
「子淑…。」
孔明の困ったような声が、目を閉じた子淑の顔に当たった。
目を開けると、孔明が子淑の方へと身を乗り出して、諭すような顔を見せている。
「冗談だ。」
短く告げると、孔明が表情を緩めた。
「な、なんだ、びっくりしました。」
後ろで花がホッとした、と胸をなでおろした。
「その承認、明日までに頂けると助かります。お願いいたします。」
姿勢を正して告げると、子淑はお辞儀をして足早に部屋を出た。
孔明は弟子を大事にしている。
弟子を大事にすることは当たり前にある事だと言うのに、それが孔明だというだけで、こんなにも心が乱れる。
孔明は、仙女しか大事にしないのだと思っていた…。
違うんだ…、自分が大事にされないのは仙女じゃないからだと、そう思っていた心がズタズタに切り裂かれて燃やされて灰になった。
違うんだ…。
孔明は、あんな風に愛しさを込めた瞳で誰かを見つめることが出来るんだ、あんな風に切なそうに、触れようとして触れられない、そんな事をするんだ…。
仙女にしか心を動かさないと思っていたのに…、違うんだ…、違う…。
もう、本当に私には望みがないんだな…。
でも…、でも諦めたくないんだ、諦められないんだ…。
ごめん孔明、こんなにしつこくて、こんなに狡くて、私は…、これからもお前にどんどん嫌われていくのかもしれないな…。
冷たい風が中庭から吹いてきて子淑の前髪を揺らしてかき乱していった。
子淑は頭を振って前髪を戻し、前を睨みつけるようにして執務室へと戻っていった。





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