子玉殿が亡くなり、玄徳様が荊州を任されるようになってから少し経った頃。
何時ものように執務室にこもり竹簡と睨めっこをしていた子淑だったが、扉を叩く音に視線を上げた。
「どうぞ。」
声を掛けて扉を見つめる子淑の顔が、明らさまに歪んだ。
「やっと来たか。遅かったんじゃないか?」
スルリと中に入り込み、腰に手を当てた相手が嘆息した。
「お前の弟子なら、部屋にこもりきりだぞ。弟子だと言うから文官の仕事もするのかと思っていたが…。」
「うん、そうみたいだね。」
「そうみたいだねって…、孔明、何を考えている?」
カラン…と、竹簡が置かれた音が響いた。
毎度唐突に訪れる孔明だが、いつも何かしらの理由があり、その理由をけして明かしてはくれないことも分かってはいるのだが、尋ねることをやめることはできない。
既に孔明の手伝いをしないと宣言した今なら、余計にその理由が知りたかった。
ただ旧知に会いに来ただけ、と言うことなのだろうか…。
それとも、他に理由があるのだろうか…。
静かな部屋の中で、孔明が部屋を見回しながらゆっくりと歩いている。
探るように、値踏みするように。
じっと座っている事に居心地の悪さを感じて、子淑は湯飲みに水を注いで机に置いた。
「水で悪いが。茶が良ければ取りに行ってくるが。」
「有難う。これで良いよ。」
部屋を物色していた孔明が、やっと机の前に来て子淑と向き合った。
そして、水を飲むためとばかりに、視線を湯飲みに移してじっとしている。
「どうした、また弟子に助言しに来たのか?あれがこもっているのは、また戦をする計画でも練っているのか?」
違和感を感じる。
孔明がここまで喋らないのは珍しい。
頭の中で目まぐるしく何かを考えているのだろうか、だがそれならば話し掛けても反応すらしないが、問い掛ければ答えが返ってくるし、反応もある。
「私に愛を囁きに来たのか?それならば大歓迎だ。」
「いや、僕も正式に玄徳様に仕官する為に来たんだよ。残念だったね。」
「…非常に残念だ。」
非常に…残念だ…、そんな事ばかりは即座に返答をよこす…。
ムッとして眉間に皺を寄せたが、やはり孔明の様子が普段と違って見えて、子淑は怪訝そうに首を傾げた。
「一体どうした、来てからずっとそんな調子だが、何か悩み事でもあるのか?」
「あー、うーん、悩み事でも無いんだけど、ちょっと気になってね。」
「私で相談に乗れるなら、話せ。」
「うん、相談て言われるとそういうことでも無いんだけどね、うん、まあいいか、じゃあ単刀直入に言うよ。」
それまでどこか重たい雰囲気を纏っていた孔明が、子淑を頭から足の先まで眺めまわした。
「君、女として雇ってもらうって言ってなかったかな。その格好、どう見ても男だし、噂を聞いても君が女として働いているって話を聞かないよ。」
言われてみれば…、自分が今纏っているのは紛れもなく男の衣装だ。
今までの癖でこのまま過ごしていたが、そう言えば一度も自分が女であると名乗り出ていない。
「いや、まぁ、そうだな…、あー、でも…。」
子淑は、自分の衣装を触って摘んでしながら、額を手で覆った。
「忘れていた…。そもそも、自己紹介で自分は女だと言う事が普通では有り得ない事だから…。」
言うと、孔明は嘆息して水を飲み干した。
「仕事は優秀だと聞いているよ。僕の出番がなくなるんじゃないかと心配するほどだよ。」
お前を仙女に近づけるわけにはいかないからな、なるべく出番を減らしたかったよ。
子淑は思ったが、しかし首を横に振った。
「お前が必要だ。私では限界を感じていたところだ。」
いくら自分が周りを抑えようと躍起になったところで、ぽっと出の若造扱いの自分が古参の文官達へと意見したところで、取り成してもらえない。
玄徳様も平等な方だから、すべての意見に耳を傾ける。
そして、古風な考え方をする方でもあるから…自分では新しい風を送り込むことは出来なかった。
「お前なら、碁盤で遊ぶようにみんなを意のままに操ることも出来そうだな。」
玄徳様自らが迎え入れたいと思っていた伏龍先生の意見ならば、玄徳様も納得するのだろう。
自嘲気味に笑って言う子淑の向かいで、孔明が腰を折って視線を合わせてきた。
「ふうん、そんな風に思っていたの?」
孔明が、先程まで睨んでいた竹簡を手に取り中に目を通した。
そして、読み終えると再び視線を合わせるために、机に頬杖をついた。
「出る杭は打たれるねぇ。僕の前に君が打たれてくれて、助かったよ。僕はあまり打たれなくて済みそうだ。」
竹簡をひらひらと振りながら、孔明が楽しそうに言うが、子淑は竹簡を奪い取って睨み付けた。
「従来のやり方で良いそうだ。迅速かつ的確な方法が有るのに、それは試したことが無いからやらないらしい。それでは百年経っても今のままだと抗議しても聞く耳を持たない。私が出世したとしても、なんだかんだと言うことを聞かないのだろうな…。」
「そうだねぇ。君の言い方にも問題があると思うけどね。じゃなきゃ、ここまで嫌われないんじゃないかな。」
「きっ…、嫌われている…か、確かにそうだな、そうじゃなきゃわざわざこんな竹簡を寄越さない…か。」
従来のやり方で進めると言う報告の竹簡は、新参者は関わらないでもらいたいと、遠回しに書いてあった。
今までも、ここのやり方を覚えろだ上には従うものだ色々と言われてきたが、関わるなは酷すぎる。
感情が顔に表れにくいが、感受性が乏しい訳ではないのだ、流石に傷つくし、州を良き方向へと導きたい想いは同じはずだというのに、方法が違うだけで排除されるのは納得がいかない。
「君はもう少し柔軟性を身につけると、良い官吏になるんだけどねぇ。」
「真っ向から反論せずに、のらりくらりと相手を誘導しろと言うのだろう。分かっているが、間怠っこしくて一刀両断したくなるんだ。」
「気持ちは分かるけどね、十割自分の意見を押し付けるのではなく、八割まで下げても相手が得したと思える様な話術を習得した方が良いね。」
「そうして出来上がったのが、お前のその飄々とした雰囲気か。」
子淑も頬杖をつくと、孔明を真っ向から睨みつけた。
が、その手の中の杯が空になっていることに気づいて、水差しを取りに行くことにした。
孔明を睨んだところで事態は好転しないし、自分のこの性格も、そうそう変わるものではない。
「なんだか言い方に悪意を感じるね。広い視野を持って、先々の事を踏まえて、目の前の事に取り組むとだね、深刻になって考え込んでいる暇は無いと、そういう事だよ。」
「分かっている。自分の能力や性格に後悔している暇は無い。すまん、八つ当たりした。」
水差しを持って孔明の元へと戻ると、子淑は孔明へと頭を下げた。
「良いよ。たまには誰かに当たらないと、やってられないでしょう。古狸たちを相手に毎日頑張っているみたいだしね。嫌われていても、きちんと能力を評価してくれている人も居るんだから、これから上司となる幼馴染としては嬉しい限りだよ。」
昔とは違う、柔らかく人を包み込む余裕を含んだ笑顔を見せて、孔明が杯を差し出した。
子淑は杯に水を注ぎながら、その微笑みから視線を逸らした。
見つめたら頬が熱くなってしまう、そういった反応は自分らしく無い気がして、見られたくない。
だから、わざと口を尖らせた。
「そう嫌われていると連呼するな。」
「本当に心底嫌われているようなら言わないよ。」
「…いや、お前なら言うだろう。」
「うん、士元になら言うかもしれないけれど、言わないよ、うん、君には言わない。」
どういう事かと怪訝そうに伺いみれば、孔明が水を飲みながら子淑と視線を合わせた。
「君は、心底から嫌われるような仕事はしないからね。煙たがられるだろうけど。」
そう言う孔明を見つめ、子淑は瞬き一つせずに上から下まで眺めまわした。
「どうしたの、そんなにジロジロ見て…。」
「ああ、いや…、案外きちんと評価していただいているようで…。普段ならそんな事は言わないだろう?」
「えー、そうだっけ?僕はいつも物事は平等にきちんと判断しているよ。」
「そうなんだろうが、それをわざわざ伝えることをあまりしないだろう。どんな心境の変化だ?そうだ、仕官するために来たと言ったな。それも、何故今なんだ、荊州を取れただけでは安定しない事は誰でも分かっている。この先、ここを守りつつ勢力を拡大させる為には、弟子の力だけでは足りないという事か?」
子淑の言葉に頷いていた孔明が、にこやかな笑顔を向けた。
その軽そうな笑顔の裏に、何か有ります、と告げられている気しかしない。
「そうだね、弟子の力だけでは足りないかなぁ、と思ってね。内政を取り仕切る僕と言う逸材が必要でしょう?」
「…まぁ、必要だが。理由はそれだけか?」
「それだけって、大きな理由だと思うけど?」
「うー、まぁそうなんだが、何だか納得いかない、と言うか…。」
上手く言えないけれど、理由はその一つだけではないような気がしてならない。
自分に言いたくないから言わないだけで、子淑だから言いたくないのか、誰にも言いたくないのかは分からないけれど…。
「さて、もう行くよ。可愛い弟子にも会わなきゃいけないしね。」
そう言うと、孔明はわざわざ子淑の手に空になった杯を置いて背を向けた。
いつも孔明は子淑に杯を手渡して去ろうとする。
見送りは必要ないという意味に、いつしかなっていた。
だが、今日はそれを無視したかった。
何故だろう、孔明がいつもと違うと、どうしてもその違和感がぬぐえないのだ。
後を追い、扉を開けて出ていこうとする孔明の袖を掴んで少しだけ引っ張ってみた。
「どうしたの?」
孔明が不思議そうに振り返った。
そして、懐かしそうに目を細めた。
「昔もよくこんな風に引き止められたっけ。何をしに行くんだ?どこに行くんだ?自分も連れて行けって。懐かしいなぁ。」
言いながら、孔明はそっと子淑の指から袖を外した。
「懐かしい…か。そうだな。いつの間にかやらなくなったな。」
「うん。いつの間にかね。…どうしてやらなくなったの?」
本当に分からないのか、本当は分かっているのか…、逆光に照らされた孔明の顔が薄暗くて、読み取れなかった。
「大人になったからな。」
「ふぅん。」
違う。
孔明が、けして教えてくれることは無かったからだ、引き止めたところで、自分のところに残ってくれたことも無かったから…、いつの間にか引き止めるのが怖くなっていたのだ。
拒否されることが、怖かったから…。
だけど、今それが出来ているのは…悲しいかな、既に拒否されたからなのだろう。
「孔明、やっぱり何か変だぞ。どうした、玄徳様に仕官するので、緊張でもしているのか?」
「緊張?仕官するのに?…確かに、自由の身から縛られた毎日に変わるのは面倒だと思うけど、緊張なんかしないよ。」
「本当に…?」
「変なのは子淑の方だと思うけどね。さ、いいかな、もう行かなきゃ。」
「ああ。」
「じゃあね。」
子淑は頷いた。
頷くしかできなかった。
何と言えばいい?
明日から毎日愛を囁きに行けるんだな、とでも言えばよかったか?
だけど、できなかった。
今の孔明には届かない気がして、孔明の意識がここにはない事がとてもよく分かって…、言いたくなかった。
「孔明、…遠いな。」
結局、自分が問いかけたことに対する、本当の答えは何ももらえなかった気がする。
適当にお茶を濁して去っていった孔明だが…、それでも顔を出してくれたことだけは素直にうれしかった。
あー…、駄目だな、こんなことくらいで嬉しいとは、相当狂っているな…。
手の中の杯を机に置いて、それを指で弾いた。
コロン、と転がり、くるくると不格好に回る杯が、無様な自分のようで少しだけ笑えた。


緊張?
…子淑、君はやっぱり鋭いね。
確かに、これを緊張と言えば当てはまる気がするよ。
だけど、嬉しくもある、ようやく、確認できる時が来たことに…、ここからまた時間が動くかもしれないことに…。
孔明は、子淑が摘まんだ袖に指を添えた。
引っ張られたように引きつっているわけでは無いのに、引きつっているような錯覚に襲われる。
孔明は袖を自分で引っ張って、その錯覚を打ち消した。
そして、可愛い弟子の元へと、わざとらしく足取りを軽くして向かった。





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