廊下の奥から、小さく足音を立てながら誰かが歩いてくる。 その軽やかな足音は、れいの姿を見つけると駆け寄ってきた。 「れいさん!ここに居たんですか?」 千鶴ちゃんだ。 途端、沖田さんが小さく溜息をついて肩をすくめる。 自分を縛り付けていた見えない糸が解けて、息を大きく吸い込む。 手のひらがじっとりと汗で濡れている。 沖田さんという人は、本当に計り知れない恐ろしさを秘めている。本当に、あまり関わりたくない・・・。 「あ、沖田さん!駄目ですよ、寝てないと!!」 「煩いなぁ。そんなに寝ていなきゃいけないほどじゃないんだってば。」 脱げた草履を履いて立ち上がると、彼はやっとこっちを振り向いた。 「はぁ、じゃ、僕は行くよ。」 沖田さんはそう言うと、さっさと立ち去ってしまう。 一体彼が何をしにここに来たのか、結局分からなかった。 「沖田さん・・・。」 千鶴ちゃんが心配そうに呟く。 一体何をそんなに心配しているのか分からないが、寝ていないと!という言葉を思い出し、彼は病気でもしていたのか・・・?と思う。 「あの、れいさん。」 「・・・はい?」 未だに緊張を身体に残しながら、ぎこちなく千鶴ちゃんに微笑む。 「寝ていなくて大丈夫ですか?」 「大丈夫。もう部屋に戻るし。」 「そうですか?手伝いましょうか。」 そう聞く彼女の手には、お茶がお盆の上で湯気を立てて置かれている。 「千鶴ちゃん、土方さんにお茶を持っていくんでしょう?」 「あ、はい。」 「行ってらっしゃい。随分根を詰めていたから、そろそろ喉も渇いているんじゃない?」 「でも・・・。」 「私は大丈夫。一人で歩けるからここまで来れたんだし。帰れるって。捻挫くらい、どうってことないのよ。」 千鶴ちゃんが心配そうに眉を下げるのを見て、頬を優しく撫でてあげる。 「じゃ、帰りがけにまだ歩いてたら手伝ってね。」 「はい!」 嬉しそうに微笑む彼女を見て、思わず心の中で舌を巻く。 これは、男だらけの屯所内で、こんなに可愛く献身的に尽くされたら・・・、落ちない男は居ない。 例え相手が子供だろうと・・・。 大体、17歳前後だと聞く。とすれば、嫁入りをしていても可笑しくない年齢だ。自分だって、17歳に結婚をしたのだから。 手を振って千鶴ちゃんと別れて歩きながら、彼女の可愛らしい笑顔を思い出して唸る。 すぐに子供だ・・・とは言えなくなると思う。 大輪の花開く女に変貌を遂げるだろう彼女を思い、そんな彼女を大事にしている幹部連を思い出す。 そして斎藤さんを思い出して、再び唸る。 毎日一緒に暮らしている彼女を、斎藤さんが憎からず思っているのは分かっている。 それが、恋だ、愛だ、と変わるのはすぐかもしれない・・・。 そうしたら、自分なんか入り込む隙も無い。 斎藤さんはきっと、千鶴ちゃんが誰か他の人を好きになったとしたら、それを見守るのだろう。 そして、自分は他に目を向けずに、一途に思いを貫く・・・・・・。 私は・・・・・・? 私は、それを見守り、思いを貫くことなんか出来るだろうか・・・? 既に、起こっても居ないことで嫉妬して、醜くも恨めしいと思ってしまっている自分は・・・。 斎藤さんが、千鶴ちゃんへの思いを開花させる前に、自分に思いを寄せていると勘違いさせるように振舞うのだろう。 大人の女の浅はかな謀略。 大人の女・・・・・・って、自分が? ただの子供、千鶴ちゃん以下の、駄々を捏ねて泣き叫ぶ子供だ。 欲しいものが手に入らなければ、泣けばいいと思っているような・・・・・・。 「はぁ・・・。」 目の前が暗くなってくる。気分が沈み、世界までもが沈んでいくようだ。 やっとのことで部屋へと辿り着き、襖を開ける。部屋の中には布団が一組敷かれていて、それ以外には何も無い。 いつもは山崎さんの部屋として割り当てられているらしい。 髪結い処よりも山崎さんの荷物は少ない。少ないと言うか、本当に何も無い。 彼が如何に忙しく立ち働いているかが分かるようだ。 自分の身の回りのものを置くほど、ここでのんびりと出来るわけではないらしい。 この、何も無い部屋が、まるで自分を表しているようで・・・、嫌だった・・・。 空っぽの自分は、一体何故生きているのだろう・・・。 本当に、沖田さんに斬ってもらえばいいのではないだろうか・・・・・・。 何故生きているのか・・・、ただ、苦しくて怖くて痛いのは嫌だから、だ。 自ら死ぬ勇気も無い自分は、自ら命を絶った夫よりも臆病者でどうしようもない。 布団に潜り込み、天井を眺める。 疲れた。 けれど、眠くは無い。 身体が重い。 けれど、瞼は重くない。 何が正解で、何が間違いなのか分からない世の中で、自分が生きていることが正解なのか間違っているのか、分かる人など居るのだろうか・・・・・・。 じっと天井を見つめている。 起きているのに、池に浮かぶ花びらが見える。 自分は一体、どうしてあの情景を見ているのだろうか・・・・・・。 理由を考えても、分からなかった。
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