斎藤さんに注ぐお酒が無くなって、れいは頼むために立ち上がった。 真剣な様子で耳を澄ましている斎藤さんの邪魔にならないように、なるべくそっと動く。 襖をゆっくりと開けて外に出ると、階下に顔を出す。 そこには、遊女が客を取っている間に時間をもてあましている客が居る。 その中に甚兵衛が居るのを確認すると、少しだけ複雑な気分になった・・・。 小雪太夫の懸念は当たっていたということで、ここで待っているということは、天神か誰かを待っているということだ。 そして、取り返す・・・という無理難題を思い出して顔が歪む。 禿が顔を出して、用件を聞きに来てくれると、お酒の追加を頼んで去ろうとする。 少しだけ、甚兵衛を盗み見ていると、どうも隣の待ち客と親しいようで、何やら談笑をしている。 そこに、天神付きの禿が甚兵衛を呼びに来て、二人が一緒に腰を上げる。 何故二人一緒に行くのか・・・・・・? その理由を考えて、思わず顔を真っ赤に染め上げるれいの横をすり抜ける甚兵衛と、男。 その男が、すれ違いざまれいの腕を掴んで引っ張った。 「わっ!何!?」 体勢を崩して床に膝を着くと、男が目の前に座り込んでれいの顎を掴んで上向かせる。 「ほぉ・・・。甚さん、俺、この女が良いな。」 「他の客相手にしてはる間は、我慢しぃ。」 「いや、我慢なんか出来ん。ここに居るちゅーことは、男に飽いて遊びに来てるんじゃないのか?な、女。」 「え、いえ、お酒の追加を・・・。」 れいは、助けて欲しくて甚兵衛を見たが、楽しそうにニヤニヤと笑うだけで、その様子をただ見ている。 禿の女の子がお酒を持って上に上がってきた時、男が顎から手を放してれいの脇の下に腕を入れて持ち上げる。 「あの、その方が何か失礼を?」 禿が気を利かせて聞いてくれるが、れいを抱き上げた男は、人の悪い笑みを浮かべて首を振る。 「いや、俺の相手をして貰おうと思ってな。」 「え、それは約束違反ですよ、お客さん!」 「私、部屋に戻らなきゃ・・・!」 男がれいを抱き上げて胸元に顔を埋めてくるのを必死に腕を突っ張って避けながら、降ろしてもらおうと脚をバタつかせるが、軽々と持ち運ばれてしまう。 「あの、ちょっと!放してください!」 「何やの?何か失礼があったん?」 階下からお母さんの鋭い声が届く。 厄介ごとを起こしたら、何もかもがお終いだ・・・。 背中を嫌な汗が伝う・・・。 と、一つの部屋の襖が開いて、一人の男性が顔を出す。 「さ、斎藤さん!」 「俺が買った女に何をしている?」 斉藤さんが、音も無く抜刀すると、れいを持ち上げている男の首筋にヒタリと据える。 「な、何だよ・・・、ちょっとした冗談じゃねぇか・・・。」 男はれいを放して手を上げる。 それがあまりに急にパッと放すものだから、れいは持ち上げられた分の距離、尻から落ちて、衝撃のまま倒れこむ。 髪から簪が数個抜け落ちて、無理やり結い上げた髪がバラリと崩れて顔にかかる。 「お前・・・・・・、長州の・・・。」 「っち!おい、甚さん、話が違うぜ!何だよここ!」 男が甚兵衛を睨みつけて、腰から刀を抜き放つと、れいに向かって振りかざした。 刀の軌跡がなぜかゆっくりと振り落ちてくる・・・。これから何が起きるのか覚悟をするだけの時間をかけて落ちてきているようで、その実、まったく覚悟なんか出来ない間・・・。 目を閉じることも出来ずに見つめていると、目の前に黒い影が躍り出てきて、キィィン!!と鉄がぶつかり合う細い音が鳴り響く。 その横を甚兵衛が駆け去り、それに気をとられた斎藤さんの刀を押し返して、男も階段を転がり下りていく。 「待て!!」 斉藤さんがチラリとこちらを向いて、目を瞠る。そして、『部屋で待て!』と去り際に言い捨てて男二人を追いかける。 外に出た辺りで、「そっちだ!」という掛け声が聞こえ、数人の男たちの走り去る足音が響いていく。 下から、お母さんが駆け上がってくる。泣き叫ぶ禿の女の子を抱きしめて、れいの方を見る。 「何があったん?」 何個かの部屋の扉が開いて、野次馬で顔を出す人たちが居る。 その中で、天神の部屋だけがお客さんが来ないことに不審を抱かないのか、ピクリとも動かない。 「お客さん同士の・・・捕り物騒ぎ・・・?に、なった・・・のかしら・・・?」 動悸が激しく鳴り響く。声が震えて、未だに動くことが出来ない。 「捕り物騒ぎ・・・。迷惑なことしてくれはって・・・。」 「ご、ごめんなさい・・・。」 「いや、れいのせいやないし。あんたはんも、無事で良うおした。」 お母さんが、禿を抱きしめながら、れいの頬を撫でてくれる。 「ほら、あんたらも、お客さんに暇させたらあかんえ!」 野次馬している人たちを部屋の中へ戻るように指示して、お母さんが立ち上がる。 「れい、今日はどないしはる?もう帰らはる?」 「いえ・・・、さっきのお客さん、待ってろと言われたので・・・。」 「ほな、戻ってくるんやね。まぁ、こうなったら待つ義理はないんやけど・・・。」 「あの、待ってみようかと思います・・・。どうなったのか気になるし・・・。」 「・・・あんたはんも、物好きやねぇ。まぁ、止めしまへんけど。」 お母さんが、そう言ってため息をつくと、階下へと降りていった。 れいは置き捨てられたお酒を手に持って、元の部屋へと戻る。 顔にかかった髪の毛をかき上げて何とか元に戻そうとするが、どうにもならない。 諦めて、髪の毛を解いて前髪と後ろの少しを持ち上げて形だけは結髪風にして、簪を挿す。 落ち着くと、震えが走る・・・。 一瞬の剣戟、その中に躍り出てくる斎藤さん・・・。 斎藤さんの剣の腕は、新選組の中でも一、二を争うと聞く。 いくら腕が良いとは言え・・・、自ら白刃舞う中に躍り出るのに恐怖は無いのだろうか・・・。 もし何か一つ間違っていたら、死んでしまう・・・。 自分が死んでしまうかもしれない状況よりも、斉藤さんが死んでしまうかもしれないことの方が、何百倍も怖い・・・。 れいは身体を抱きしめて、膝に顔を埋めた。 斎藤さんを待つこの時間が、とても長くて苦しい・・・。
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