私の部屋は畳だから、夏はとても過ごしやすい。タンスを背にして編み戸からくる風を受けている。体育座りした、ショートパンツから剥き出しになってる膝を、のせてるアイスコーヒーが入ったグラスが濡らす。ノースリーブの腕は涼しいくらいだった。曇りなんだか、晴れなんだか、湿度だけが微妙に高い変な天気だし、加えて電気もつけてないから、最高気温35度をマークした昨日の夕方とは比べものにならないくらい薄暗い。
頭上にかけてある、白いワイシャツが揺れるのが分かる。部活を引退した今、あと2週間は使わないだろう馴染みあるワイシャツ。
すぐ近くを通っているローカル線の音は、勉強してる最中だとうるさく感じるのに、カラスの鳴き声と適度な涼と精神的な余裕、そういうものがあれば、途端に風物詩に様変わりだ。
「なーに、やってんの」
電車が遠くなるのが分かる。道路を走るバイクのエンジン音と、そろそろしなくなるだろう高い鳥の声の中にもぞっと、ドアを開けた誠二くんの間の抜けたせりふが入り込んだ。「あれ…帰ってたの」近いうちに、とは聞いてた。
「うん、さっき」
それですぐにうちに来たの?って、思って、私はたぶん気づかないうちに苦笑したのかもしれない。誠二くんは少しだけ、目をきょろきょろさせた。下着でもかかってたかな。止まった視線の先に顔を向けると、昨日着たマリン柄のワンピースが、左右にふらふらしている。そうだ、下着は勉強を始める前に、ちゃんと取ってたたんでしまったんだった。
「この部屋、涼しいなー」
「今日は風もあるよね」
「でも、下界はあちいよ」
言い方がおかしくて顔が歪んでしまう。遠めで薄暗いけど、誠二くんは相変わらず黒く日焼けしているんだろうなぁと想像はできた。不自然に白い、足のすねから甲を毎年気にしてるけど、膝上からの違いは今だとよく分からない。
「おばさんにさ、お土産、持ってきたっつったら、部屋にいるわよって」
「食べもの?」
「食おうよ」
ひたひた、誠二くんの裸の足と畳がくっついて離れる、私の真正面に足を崩して座ると、持ってた紙袋から四角い箱を出した。水羊羹みたいだった。
「つっても、先輩の実家のやつなんだけどさ」
受けとる代わりにコーヒーが抜かれる。水滴がいっぱいの膝を、風が撫でた。電気をつけてないからますます暗くなってくる。誠二くんがコーヒーを飲み干した、カラリと氷がグラスにぶつかる。
「うまいよ、おれも何回か食ったけど」
「いただきます」
「ごちそーさま」
私の膝に戻ってきたグラスを、そのまま身体の横に置く。備えつけのスプーンで食べた水羊羹は確かにおいしかった。誠二くんと2人で4つの空容器ができた。
机の上に開きっぱなしだった、ノートがめくれた。
「…勉強、どう?」
「まあまあかな」
「講習とか行ってんだ?」
「うん、行くよ」
「ああいう服で?」
揺れるマリンのワンピースを、言葉で指す誠二くんの顔は、風を運ぶ編み戸に向いている。私は、そうだねと答えて、額を膝につけた。そろそろお尻が痛かったけど、誠二くんが真向かいにいるせいで足をのばせない。
「かわいいでしょ、新しいやつなの」
「うん、まあ」
「歯切れが悪いよ」
「…お前、大学行くんだよなあ」
「なにそれ」
世界に2人しかいないのかもしれないと、思えるくらい穏やかな空間だった。実際には、どこかで泣く子供とか、定期的に通る電車とか、犬とか車とか無数に存在する音があるのに、自然に溶け込みすぎていた。心臓の動きがなんとなく苦しくて、顔を上げて息を浅く吸った。はいた。
編み戸から入る申し訳程度の夕日に、さらされた誠二くんの横顔がシャープになっている気がする。薄暗い部屋に浮かぶ幼なじみは、いつも、すごく大人になっていた。
「大学行ってさぁ」
「受かればねぇ」
「したら、バイトとかすんだぜ。サークル入って、旅行行って、適当に授業受けて」
「どうしたの?」
誠二くんは、何か、彼がきらいな人参を食べたみたいな顔をした。
どうしようもなくて、曲げてた膝をもっと胸に近づける。眠ってしまいたかった。眠るのに心地いい温度な気もした。だけど、誠二くんはすごくまっすぐ、いつの間にか私を見ていた。蛇に睨まれたかえる、という言葉が思い浮かぶ。一度その視線を認識したら逸らせなくなってしまって、長年幼なじみをやってるのにはじめて、こんなに長く目を見たなってくらい、誠二くんの黒い眼球を見つめた。
「おれはプロになるし、それを後悔もしないと思うけどさ」
「誠二くんらしいよ、とっても」
同い年で一目二目、置かれてる誠二くんは、私みたいなそれなりに普通の人生を歩みそうもない。年に何度か、こうして顔を合わせるたびに、お隣りさんの藤代さんの次男、そういう誠二くんがいなくなっていってる気もする。だって、たまにだけど、テレビをつけるとその中にいるんだ。私の頭の中に、テレビカメラに映る人が特別じゃないなんて認識はなかった。
そう、なかった。だけど、特別なのとその人をどう思うのかは、全く別の問題だった。長い間。
「…あのワンピース、短かすぎじゃねー?」
どうして彼氏つくらないのって、友達に聞かれたことがある。
「かわいいから、いいけど、なんかやだ」
そんなのは、私がいつまでも、はっきりできないせいだ。
そうして誠二くんも同じ。二人して、昔からの状態に寝そべって、変わらない関係にため息をつきながら、それでも安心するなぁなんてたかをくくってとうとう高校3年の夏休み。
「かわいいならいいじゃん」
「そうじゃねーんだって」
「じゃあどうなの?」
「んー、そういうのはさ、やたらに見せるもんじゃないだろ」
踏切が閉まりはじめる合図が響いた。風で髪が頬に触る。膝を抱えこんでいた両腕の片方、左腕が、誠二くんの大きい手の平でなぞられて、私は思わず肩をすくめた。ノースリーブを着てたのが失敗だと思うくらい、繊細な触り方は、夏の夕方に泣きたい気持ちをせりあげる。
「華奢だよなぁ」
手が、熱い体温で包まれた。「なんで、変わっちゃうんだろう」
私と誠二くんは、立派な男の子と女の子だった。
体を引こうとして、でも後ろはタンスがあって、思わず、右手を畳みに降ろしたら、横に置いておいた空のグラスを倒してしまった。迫った幼なじみの顔、もっと言うと、両目の間を必死に眺めてると、膝が邪魔だと真顔で言われる。ゆったり、立てていたそれを倒して、同じ速度で誠二くんの手が私の髪の中に入った。閉じて、それだけかすれた声で囁かれて、抵抗なんてできずに素直に従う。
ずいぶん、こ慣れた唇の、乗せ方だった。
ちょっと癪だったのは、一生言わないと思う。
「…誠二くん」
「おれ、たぶんずっと、好きなんだよ」
頬にかかる手首を取ると、いいから黙っててって言われてるように、何回も重ねられた、誠二くんの体温は吹き抜ける夏風と違って熱かった。鎖骨から下に這おうとする手を慌てて止めると、いたずらっぽい見慣れた表情が視界に広がった。
「おばさん、おれと入れ違いに出ていった。今二人っきり」
「…私…まだ何も言ってないよ」
「うん、そうだけど」
でもさ、おれのこと好きだろ。誠二くんの言い方はすごく傲慢で、すごく正しくて、有名になるにしたがって膨らんでた焦燥感を、今だけかもしれないけど確実に消し去ってくれた。大丈夫だと思えるのはどうしてだろう。何があっても、今日、少し汗ばむ手の平で、誠二くんが私を包んだことを忘れなければ、どこまでも大丈夫だと分かっている気がした。理由を探るように、目の前の穏やかな顔を焼き付けている、誠二くんはそういう私を、かと思えば全然知らないような表情で、やっぱり焼き付き返す。
「おれ、プロになる。横で見てて、すぐ横でさ」
聞いたよさっき、そう笑うと、そうだっけと目を細めた。分かった、そうだ。何が変わっても、そう。私、あなたがとても美しく微笑むことが出来るのを知っている。
何度目か分からない、踏切の音がした。電気をつけないと、誠二くんの顔もだんだん見えなくなってくる。まあいいか、と思った。風は冷たいけど、お互いの熱は高いから、薄暗いくらいがちょうどいいのかもしれない。彼とは違う方向に歩むための、ノートがかさかさこすれる音が響く。蝉、蝉は、いつから鳴きはじめたんだろう。忘れたくてもたぶん無理な、夏の匂いがなんとなく鼻につく。いつの間にか広くなった、肩口に額を押し付けられる。私は、誠二くんを、すごく好きだ。
スロースターター
FIN
thanks,regista