「どうして嘘を吐くの?」
「…わたし、嘘なんて吐いてないよ」
「ほら、また」





パチン、と静かな教室にホチキスの音が響いて、紙の擦れる音が小さく鳴った。有希ちゃんはこちらを小さく睨み付け、溜め息を吐いててから種類毎に分けられた藁半紙のプリントに手を伸ばす。わたしは有希ちゃんによってまとめられたプリントを一つずつホチキスで閉じていく。パチン、パチン。薄暗くなりかけた放課後に蛍光灯の光が揺れて、細く開けられた窓からはグラウンドで活動する運動部の声が聞こえてくる。わたしが座っている、濃い木目の残る机の中には教科書やプリントが無理矢理に押し込められていた。この場所はもともと自分の机ではなく、委員会の仕事をするためにたまたま有希ちゃんの近くを選んだけだったけれど、わたしはそれが何となく不快だった。



「…有希ちゃん。部活、行ってもいいよ」
「最後までやるわ。もう少しで終わりそうだしね」


薄い束になったプリントをパチン、とホチキスで閉じていく事で自分の隠していた気持ちに気付かないふりをしようとしたけれど、結局そんな事は出来なかったし、逆にそれは、わたしの気持ちを―わたしが気付かないふりをしていた気持ちをしっかりと意識させ、自覚させられただけだった。



「あなた、それでいいの?」
「…どういう、意味」
「どうもこうもないわよ。そのまま」


そのままの意味。
有希ちゃんが短くそう言うと、またパチンとホチキスの音が響く。沈黙は空気には溶けない。この二人きりの静かな教室で、有希ちゃんがそうさせてくれない。



「……だって、みんながそうだもの。わたしだけじゃなくて、みんな―」
「みんな?じゃああなた、みんなが人を殺したらあなたもそうするの?みんながそうするから?」
「…そんな、…有希ちゃん、いくら何でもそれは話が飛びすぎてるよ」
「そう?わたしはそんな事ないと思うけど。考え方の本質は同じよ」
「…っ、わたし、…」


何かを知らないというのは、素晴らしく爽やかな事だ。いっそのこと、いつもそうで在れたらと思う。そうで在りたいと思う。けれどそれでは駄目なのだ。例えようのない不安と不快感が胸に押し寄せて俯いた。だってどうしても、この世界で純真は害になるし無知は罪になる。彼女はそれを知らないかもしれないけれど、わたしは知っている。だからわたしは、彼女の様にはなれない。有希ちゃんの大きな溜め息が聞こえたけれど、俯いた顔を上げる気にはならなかった。机の上に残るプリントをひたすらに見つめる。ガタン、とイスが大きく動く音がしたのでそろりと顔を上げると、鞄を肩にかけた有希ちゃんと視線が重なった。



「…じゃあ、これまとめ終わったから。最後まで付き合えなくて悪いんだけど、閉じたら職員室までよろしくね」
「あ…、…うん」


この暗くどこまでも沈んでいくような気持ちを表現する言葉は見つからなかった。有希ちゃんの表情も真っ直ぐな言葉も、わたしは受け止めることが出来ずに俯いて机の上のホチキスと藁半紙を必死に見つめ、それからようやく小さな声を絞り出す。
昔からみんなと仲良くしなさいだとか、みんなで仲良く、という大人達の言葉が不思議で不思議で仕方なかった。けれど未だ自分の力だけでは生きられない子供であるわたしも、あの幼い頃よりは成長した今となればその不思議の正体はささやかな矛盾であるということを知り、その言葉に隠される意味を学ぶことが出来た。「仲良し」を作るというのは、それは相対的にも絶対的にも、仲良しではない―つまり、「仲良くない」人を作るということだ。仲良くするというのはどこかに壁をつくるということなのだから、みんなと仲良くなんて出来るはずがない。矛盾には気付いている。でもそれをしなければならない状況だってある。それに身を任せなければいけない時だってある。けれど。



「っ…」


けれど躊躇いがあった。傷付けるのが怖かった。傷付くのが怖かった。傷付けられるのが怖かった。目の奥がじわりと熱く滲むのがわかって、奥歯をぎゅっと噛み締める。駄目だ、泣くな。泣くな。曖昧な関係と区別のつかない善悪、弱い自分と上辺だけの会話。今泣いてしまったら、そういうものに、きっとわたしは負けてしまう。







「女子一人でサッカー部、とかね」
「…!……有希ちゃん…?」
「何にも不安が無かったわけじゃないの。むしろ不安だらけだったわ」


びくりと肩を震わせて振り返れば、教室の戸口に背中を預けてこちらを見ている有希ちゃんがいた。部活に行ったんじゃなかったのか、彼女が先程口にした言葉の内容や、いろんなことが動揺と共に胸を駆け巡る。


「…サッカー部でも、うちのクラスだけで見ても、水野とかシゲはやっぱり目立つじゃない?だからかな、嫌がらせとか悪口とか。やっかみが酷くって」
「……部活行ったんじゃ、」
「でもサッカーが好きだから、そんなのに負ける自分が嫌だった。そんなののためにサッカーから離れるのは馬鹿馬鹿しいって思った。…でもそれでもやっぱり…傷付かないなんてことは、なかったわ」
「…有希ちゃん…」
「でも今はそれで間違ってなかったんだってあたしは胸を張って言えるわ。部活だって、今は部員も増えて凄く充実してる。…遠くで眺めて大切なものを傷付けて、羨んでばかりで何もしなかった昔の自分が馬鹿みたいに思えるくらいに。…ねえ、あなた自分のことが嫌い?」
「……有希ちゃんは自分が好きなの?」
「嫌いなところはいっぱいある。でも、好きなところも少しはあるわ」


彼女の凜とした声は、晴れた朝の早い頃に似ている。強い意志は、この教室やわたしの知る友達の誰にも似てはいなかった。悔しかった。羨ましかった。憧れだった。嫉妬だった。有希ちゃんのそういう所がわたしは嫌いで、でもだから、とても好きだった。誰でもないたったひとりの彼女が、わたしは好きだった。



「…自分で、…答えは見付けられない。例え何か答えを導き出したとしても、たいていの場合、それは正しくない。わ、わたしは有希ちゃんみたいに、…自分を信じられる程強くもない。じゃあわたしは、どうすればいいの。…わたし、わかんないよ」


最後の方の言葉は涙に揺れて、声が震えてしまった。ぎゅうっと閉ざした瞳にじわりと滲んで目尻が生温く湿るのがわかったけれど、どうしようもない。涙を拭うのは何だか気恥ずかしくで出来なかったし、それに今更だろう、と心の隅で思う自分がいた。



「馬鹿ね」


それは本来なら罵りや悪口と取れる言葉だ。だけど今は違った。握られた手のひらがあたたかくて、また涙が出た。強い人だと思った。やさしい人だと思った。傷付いて、傷付けて、傷付けられて。わたしは、それでもあなたが美しく微笑むことが出来るのを知っている。彼女の言葉がずっと心の深く、柔らかいところに確かなあたたかさを持ってゆっくりと沈んでいく。有希ちゃんのようになりたいわけじゃない、わたしが有希ちゃんみたいになれるとは思わない。けれど彼女に対して、わたしも同じように思えるようになりたいと、いつか彼女が迷う時に彼女と同じ優しい言葉をかけられるようなわたしで在りたいという思いは芽生えている。なれるだろうか。わからない。でも、それでも。



「…あなたは本当に馬鹿ね。一人で答えが出ないなら相談しなさいよ、あたしに」

触れられない程に近い距離だった。けれどわたしは彼女の傍に、出来ればその隣りに、他の誰でもないわたしが居たいと、そう思うのだ。


花畑と条約
110625

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