放課後の廊下に、グラウンドから聞こえる運動部の声が良く響いた。それに私の足音が一歩、また一歩。ゆっくりと重なっていく音は気持ちと同様にずんと重く、その先に続く部屋へ行くのが拒まれた。行きたくない。でも行かなきゃ。胸の前で本を抱える手を軽く握り締めると、その中で丸められた紙がくしゃりと歪んだ。よれよれになった紙に辛うじて読める文字が三つ、太文字で印刷されている。――『催促状』。
サプライズエンカウント
朝学校に来て、一時間目の授業が始まるまでの退屈な間。いつもなら特に意識せずに終えるその時間に、担任の手から受け取った一枚の紙切れで戦慄した。
「返却期限を過ぎています。すぐに返却して下さい。 図書委員より」
恐い。恐すぎる。
印字された文字がちくちくと痛い。だいたい読書なんてまるでしないくせに無理して借りちゃって、結局半分も読めてないなんて。一ヶ月前の私は分かってなかったのだ。生活習慣はそう簡単には変えられないし、恋する乙女にだって不可能はある。そんな簡単なことにも気付かないくらい、周りが見えていなかった。郭先輩しか、見てなかった。
だからって。胸に抱いている本の表紙をちらり、と覗く。それは今流行りのベストセラー小説でも女子力アップのダイエット本でもなく、『サルでも分かる! 簡単サッカー入門』――その名の通りサッカーの入門書。片想いの郭先輩がサッカークラブに所属していると知り、少しでも近付けたらと思って借りたは良いけれどちっとも 読み進められなかった。だいたい、サルでも分かるなんて豪語しておきながら難しすぎなんだってば。フォワードとかリベロとか、外国人の名前みたい。
そんなこんなで私はこの本を二日で諦めて、それ以降ずっと机の中で眠らせているうちにすっかり存在を忘れてしまっていた。そして今朝催促状を貰い受けることになり、冒頭に至る。
怒られちゃったりするのかな。図書委員さん、恐い人だったらどうしよう。不安を胸に抱えつつ、図書室の扉の前を行ったり来たり。こうしてどれくらい時間が過ぎたか分からない。五分、いや、もしかして十分くらい経ったのかも。
これはもうさり気なく入って速やかに返却するしか……
「君、」
「ひゃいっ!?」
不意に背後から低い声を掛けられて、変な声が出た。しまった、これじゃ私完全に怪しい人だ。それでも笑ってくれる相手ならまだ良かったけれど、
「そこ、退いてくれる」
表情どころか、振り向いたら箱しか見えなかった。
慌てて道を譲ると、彼は重そうに幾つもダンボール箱を抱えながら図書室へ向かう。両手が塞がった状態でどうやって戸を開けるつもりなんだろう。心配になって様子を見ていると、「開けてよ」「あ、はい」。私ですか。
「あら、ありがとう! 重かったでしょー、ごめんね?」
入り口の少し横に箱を下ろすと、カウンターの中で受付をしていた司書の人が近寄ってきた。背が高くて明るい女性。隣で彼が溜息を零すのが聞こえた。
「いえ、大丈夫です」
「ほんと? さすが男の子ね、頼りになるわぁ」
「じゃあ、俺は――」
「あ、私ちょっと煙草吸ってくるから。ついでに受付もお願いね、郭くん!」
立ち去ろうとする彼を問答無用で引き止めて、にっこりと笑顔を向ける司書さん。本当に恐い人っていうのはこういう人なのかもしれないなぁ、と思いつつ、ん? え? あれ?
「郭……先輩?」
「何?」
えええええええええええ!?
さっきは箱で顔が見えなかったけど、改めて良く見たらこの無愛想な彼は郭先輩だった。思わず名前を呟くと、振り向いた先輩と視線がぶつかる。訝しげに眉を顰めて、私が誰か分からない、という表情だった。それもそのはず、実は私と先輩はほとんど会話をしたことがない。所謂一目惚れというやつだった。それも中学からずっとで、この高校だって初めはD判定を受けていたけれど同じ学校行きたさに猛勉強して何とか合格。そして今年、晴れて同じ門をくぐることができるようになったのだ。
「……ああ、返却ね?」
「あっ、はい!」
感動に呆然としてしまった私をよそに、先輩は一人納得してカウンターへと向かう。私が胸に抱いた本に気付いたらしい。こんなことならもっと色気のある本を借りておくんだったと後悔しつつも、積年の片想い相手とのファーストコンタクトが期限を破った本の返却というのはいかがなものか。
「どうぞ……」
意を決して本を差し出すと、先輩は慣れた手付きでパソコンを操作して、本の裏のバーコードをぴ、と読み取った。画面に表示された返却期限が昨日の日付であるのを見たらまた僅かに眉を顰め、「次はちゃんと期限守るように」と事務的に忠告。それだけ? と少し面食らって、すみませんを言うのが少し遅れた。(だってもっとネチネチ言われる覚悟で来たのに!)(って言うか先輩になら少しくらい怒られたって全然良いのに!)
変態かな、いや、少しくらい変態でも良い。だって私、先輩が――
「好きなの?」
「は、はいいいいい!?」
丁度考えていたことを先輩の声で続けられて、思わず口を押さえた。もしかしたら気付かないうちに言葉にしてしまっていたのかもしれない、焦って訂正しようとした私に先輩は涼しい顔で、
「サッカー」
「は……ひゃい、っ!」
そういうことね、と理解した瞬間、気が抜けたのかたったの二文字を噛んでしまった。かっこ悪い、先輩呆れてるかな。そう思って恐る恐る視線を向けたら、先輩が可笑しそうにくすくすと笑っていて。
「ふぅん。勉強熱心なのは分かったけど、これじゃ随分お粗末だよね」
「え? あ、」
「栞。挟んだままだったよ」
意地悪な笑みを浮かべて、桜の花びらが押されている栞をひらひらさせる先輩。二日間だらだら読んだページに挟んでいた栞で、私がその本を半分も読めていないことがバレたらしい。しまった、またしてもかっこ悪い。良い言い訳が思い付かずに、あー、とかえーっと、とか言っていると、「教えてあげようか」。え?
「サッカー。サルでも分かるように、ね」
上品で柔らかく、けれど凛とした。素っ気無く見えるけど本当は優しい。冷徹でいて内に情熱を秘めた。――相反した美しさが共存する、笑顔。
ふと、懐かしい記憶が蘇った。中学二年生の頃、初めて先輩を意識したときのこと。さあ帰ろうと校舎を出てグラウンドの横を歩いていると、一人でサッカーボールを蹴る彼の姿を見付けた。テスト期間中で部活動禁止だったから他に生徒の姿もなくて、初めは凄く不思議だった。何をしてるんだろう、勉強もせずに余裕だなこの人、って。そのまま何となく眺めていたら、こっちにボールが転がってきて。蹴り返してあげようと思って足を後ろに反らしたら、そのまますってーん、って後ろに転んでしまったのだ。前日の雨で足元が緩んでいたから、私は尻餅を付いた。ああやだな、恥ずかしい。そう思った、そのとき、
『酷い転び方。……立てる?』
彼がこんな顔をして笑ったのを、思い出した。
ああ、そうだ、私は――この笑顔に、恋をした。
「宜しく、お願いします」
私はもう、多分、ずっと前から、
あなたがとても美しく微笑むことが出来るのを知っている。
2011/07/27