耳の奥が騒いでいて痛いくらいだ。下世話な音と煙たい空気に囲まれながら、わたしは淳を見つめていた。自分が付き合いで用意した軍資金5000円はみんな飲まれてしまって、手持ち無沙汰に足をぶらぶらする。もう帰ろうよ、という言葉は言わなくても伝わっているだろうが淳はとぼけて機械に集中するふりをしていた。

「くっそー…」

彼の右手の中で転がされるコインは少しずつ減っていく。台のポケットが抱えるそれも残りわずかで、淳は苛立たしげに煙草をくわえた。ちらりとわたしの手元のライターを見るので、ため息をついて火をつけてやる。煙たい。コインはもうほとんどない。

「淳、」
「あと1000円」

言うが早いか、淳は手元にあった紙幣を機械に吸わせた。いともあっけなく手から離れていくお金は、わたしたちの労働1時間分だ。誰しもそれを考えるのは空しいので、思考麻痺していく。スロット自体が嫌いなわけではないが、この淀んだ空気とボタンをはじく短気な淳はだいきらいだった。



「で、いくら負けたの?」
「サンマンロクセン」

ようやく外で呼吸ができたというのに、淳の言葉でふうとため息に変わる。横にはさらに長いため息を吐きながら低く唸る彼氏。結局閉店まで粘り続けて惨敗した彼氏。やっぱり今のわたしたちは健康的でない、と思う。夜は澄んでいたけれど、ネオンが清純な匂いを掻き消して、それはそれは浮ついた気持ちを高まらせた。
わたしたちは二人とも夜遊び好きな性分なので、そろそろ落ち着きたいとだいぶ前から思っている。そして思うだけに終わっている。ギラギラした雰囲気に惑わされる前に、早く帰らないと、たぶんわたしも淳も脳みそが酔いどれた記憶を辿って浅ましい成分を排出しはじめているのに。

「飲みに行こう」

先に誘惑に折れた彼にむかって、やめようとも、もうお金が尽きているとも言い出せずに結局わたしも堕落した。このままじゃいけない、抜け出せない、抗えない、情けのないループ。笑えない。

「あ、もしもし桜庭、今さ飲みに行こうって話してて、うん、暇だろ来いよ」



淳と一緒に暮らしはじめたのは1年と少し前のことで、同い年のわたしは大学4年生で、その時彼はまだサッカーという生きがいに没頭していた。広がりつづける夢を捕まえながら走る淳は本当に素敵で、付き合って間もない頃から一生を添い遂げるなら彼しか考えられないと思っていた。崩れる音がしたのは、怪我で引退を余儀なくされた半年前。以前の穏やかな姿からは想像もできないほど、淳は荒れた。大切にしていた3回の食事は煙草とお酒に変わり、堅実に溜めていたお金はギャンブルに消え、何度も何度も浮気の証拠を見つけた。それでも別れようと一度も言わなかったのは、フィールドで輝いていた淳がわたしの脳裏で生きていたことと、もう半分の理由は意地だっただろう。すべてが戻るかもしれないという、希望をかぶった意地。
わたしに淳を紹介したのは、幼なじみの桜庭雄一郎だった。さくちゃんは何も悪くないのに、荒んでいく淳を見て何度も頭を下げてくれた。その度にわたしはさくちゃんの前で泣きじゃくったけれど、それが淳に伝わることはなく、3人の関係はいびつに均等なままだ。昔はどこに行ってもきらきら明るくて、みっつの影がみっつともはしゃいでいた。最近は居心地の悪い居酒屋で安酒を浴びる淳に、黙々と酔いどれるわたし、それに付き合ってくれるさくちゃん。彼はどんな気持ちでいるのだろう。呆れているのか諦めているのか、心配してくれているのか同情してくれているのか。



バーンと激しい音がして、アルコールに虚ろっていた頭が平常心に傾く。何事かとざわめく店内で視線を集めているのは、わたしの目の前にいた淳とさくちゃんだった。殴った人間と殴られた人間。腫れた頬を押さえているのは、淳の方だ。

「え?淳、さく、」
「ごめん」

さくちゃんは謝って、ずれたテーブルを直した。ついでに、衝撃に驚いてこぼれたキュウリも皿に戻した。淳は怖いほど無言だけれど、目はしっかりとしている。わたしは二人を交互に見比べながら、何が起こったのか直前に何をしゃべっていたのか思い出そうとして混乱していた。
しばらくの沈黙のあと、さくちゃんがもう一度謝った。わたしの名前を優しく呼ぶ。そういえば淳にはずいぶん呼ばれていないので、自分の名前なのに久しぶりだと感じた。お前とか、おい、とかに慣れてしまったわたし。
さくちゃんは次に淳の名前を呼んだ。厳しい響きも、優しさからなのかもしれない。『こんなお前は嫌いだ、』直前の会話をやっと思い出した。

『もう勘弁してくれよ、昔のお前はどこにいったんだよ。上原その金こいつのだろ、最近家賃だって払ってないんだろ、働きもせずにスロットと女遊びと酒と煙草と、楽しいかおい。俺が、こいつが、どんな思いでお前のそばにいるかわかってんのか、もうお前が現役に戻れないこととか、お前が一番辛いだろうけど俺らだって痛いほど辛いんだよ!上原、戻ってきてくれよ、ドリブルできなくたって、いつも思いやりがあってこいつと笑ってたお前がいればそれで十分なんだよ、くだらないことでふざけてくれる上原が俺には必要なんだよ、なあ、淳!』

さくちゃんも、めずらしく酔っていたのかもしれない。わたしたちは気づかないうちにいっぱいいっぱいだったのかもしれない。悲しみを空しいもので埋めていたつもりが、飽和してしまっていた。一つだけ訂正を加えるなら、一緒になって堕ちていったわたしは被害者ではなく共犯者だ、さくちゃん、ごめんね。涙がぽろりと頬を伝っていた。
淳が大声で泣きだした。

「淳」

嗚咽まみれで何を言っているのか聞き取れないほど、淳は泣いて、たぶん謝っていた。涙と鼻水でひどく汚れた顔は感情に歪んでぐちゃぐちゃで、せっかくの可愛い顔は台なしの不細工で、それでもここ半年で見た淳の顔の中で一番愛おしかった。彼ににじむ後悔と謝罪はわたしにも当てはまる。さくちゃんごめんね、と呟くとさくちゃんはそっと笑った。困ったような笑顔に、わたしも笑い返した。淳はそれからずっと泣いていた。他の席のお客さんの、見てないですよと心遣いがこもった視線を、生々しく浴びながら。
淳、わたしたちは、あなたがとても美しく微笑むことが出来るのを知っている。大丈夫だきっと戻れるよ、だってわたしとあなたにはこんなに頼もしいひとがついているじゃない。



「帰ろう」

しばらくして出した声は、しゃんとしていた。わたしは自分が酔いから解放されていることに気づく。さくちゃんが淳を支えて立ち上がった。淳はすすり泣きをやっと抑えて、ごめんと小さな声で言った。のどが掠れているのがわかるし、しゃべるのを鼻水に邪魔されているし、顔は憔悴していてやたらとおかしかった。
わたしがぷ、と吹き出すとさくちゃんも堪えきれずに笑う。一時の錯覚かもしれないけれど、昔の匂いがした。そして淳は、なんだよ、と言いながら私の名前を呼んで、笑い方を忘れたみたいにくしゃりと変な顔をした。


0727 こゆずき
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