狼さんより上手
「やあ、おねーさん」
夜道で声を掛けられた○○は、その声にどこか聞き覚えがあるように思えたが用心しながら振り返った。
辺りを見渡していると「こっちだよ」という声と共に、斜め横の民家の屋根から黒い影が飛び下りるのが彼女の目に映った。
その影は難なく着地し、雲間から覗く月に照らされた紅色の髪が怪しく光る。
『あ、……神威君』
こんばんは、と付け足すと神威はにっこりとした人の良い笑みを顔に貼り付け、跳ねるようにして○○の隣に並んだ。
「よかった、覚えててくれたんだネ。○○さんが見えたから下りてきちゃったんだ!」
『ふふ、それは嬉しいなあ』
「……うーん、でも関心しないなあ、夜道に女性の一人歩きなんて。あ、もしかしてそういう願望あり?」
『冗談よしてよ、いくら娼婦だからって強姦願望は無いよ。それに今の私はただの一般市民だもの』
「ハハハ、それなら俺が守ってあげなくちゃ」
○○はこの日、定期健診のために隣り町の病院に行き、その後馴染みの呉服屋で仕事用の打掛と私用の縮緬を新調した。
病院で予想以上に時間を食ってしまい、呉服屋を出た時にはすでに太陽が傾き始めていた。
提灯を貸すと申し出た呉服屋の店主に「まだ明るいから」と断りを入れたのがいけなかった、と後悔していた○○だったが思わぬ人との再会に胸を撫で下ろす。
『それより神威君はどうしてこんな時間に? もしかして夜遊び?』
「んー、半分正解」
『あら、ちなみに今日はダメだよ。今夜は休業なの』
そう言うと、神威は口を尖らせながら
「折角仕事抜け出してきたのになー」
と、肩を落とした。
押し付けてきたの間違いでしょ、と○○が言うと彼は苦笑しながら首巻きに口元を埋め頭を掻いた。
「よォ、ねえちゃん。えらい別嬪さんだねェ!」
雑談もほどほどに夜道を歩いていると、酔っぱらいの中年男性が○○に声を掛けた。
男は汚らしく厭らしい薄笑いを浮かべながら○○を見やる。
少々卑猥な言葉を掛けられながらも○○は慣れたことだと聞き流していると、神威がやんわりと睨みを効かせ、男は息を呑んで足早にその場を後にした。
『ありがとうね』
「いえいえ、どういたしまして。あ、じゃあお礼に今夜……」
『だめ』
本日二度目の拗ねる動作をした神威にクスクスと笑い、歓楽街を抜ける。
閑静な住宅街を進み、足元に注意しながら石段を上る。
風情を匂わす小さな宿や町家が佇む石畳の通りを歩いていく。
「着いたネ」
『送ってくれてありがとう。あ、お茶しか出せないけど上がる?』
「ううん、俺帰らなくちゃいけないからさ。それに今夜はダメなんでしょ? 俺はお茶より俺の子どもがほしいんだけどなあ」
悪びれもなく神威がそう言うと、○○は声を荒らげて、
『こら! あんまりそういうことを外で言わないの!』
と、顔を紅潮させながら言った。
神威は遊女の仕事をしている時の○○と今目の前にいる○○とが別人に思えてならなかった。
遊女としての務めの際は乱れて男を高揚させ艶かしく体をくねらせているのに、眼前の○○はまるで少女のように口元を抑え、紅潮する顔を隠しているのだ。
神威は疼くような形容しがたい衝動に駆られながらも、なんとか自制する。
『じゃあね』
「うん」
○○は神威に別れを告げ、木製の階段を上り引き戸の鍵を開ける。
神威に手を振り、戸を閉めようとすると何かが戸に挟まりそれ以上は閉まらないようになっていた。
『え?』
よく見てみると、黒いブーツが戸の下部に挟まっている。
視線を上げていくと先ほどまで一緒にいた男の姿があった。
○○は少し驚いたものの、引き戸を少し開け足の主を見上げる。
『あら。送り狼さん、どうかなされましたか?』
肌が日光に当たらないようにと包帯が厳重に巻かれた腕が伸ばされ、○○の頬に滑る。頬から顎へ、顎から首へ、首から首筋へと移動する。
○○が擽ったそうに身を捩り抵抗すると、その抵抗した腕さえも左手で軽々抑えられ、ぐっと腕を引かれた。
『ちょ、ちょっと、神威君……!』
「○○さん」
首筋にあった神威の右手は○○の細い首を締める。
息苦しさと圧迫感の中で彼女は必死に彼の名前を呼んだ。
しかし彼の名を呼ぶ度に手の力は強まっていき、脳に空気が回らなくなっていく。ミシミシと骨が軋む音が小さく鳴る。
目には涙が溢れ、頬を伝い流れ落ちた。
『あ、ぐ、……う、っか……かむい、く……』
掠れる喘ぎに神威は口角を上げ、愛おしそうに目を細めて○○の目に浮かぶ涙に映った自分を見た。
「なんか、○○さん見てたら困らせたくなっちゃった。こうやって必死に抵抗する○○さん可愛いんだもん。俺に力で到底敵わないのに、アンタ、一回も俺から目を逸らさないし。そういうとこ……」
何かを言いかけた時、○○は拘束の解けた腕を伸ばし神威の鼻頭をつまんだ。
いきなりの行動に神威は○○の首を締めていた手を離す。
『女の子に、……乱暴、すると、嫌われちゃう、よ!』
咳き込みながら、空気を吸い込み言葉を紡ぐ。
呼吸を整えた○○はムッと不機嫌を顔に貼り付け、神威を一瞥してから引き戸をぴしゃりと閉めた。
神威はぽつりと夜空に取り残されて、呆然と立ち尽くす。
○○につままれていた鼻頭の感触もそのままに、
「ありゃりゃ、やりすぎちゃったかな……」
と、○○の首を絞めていた自身の右手を見た。
そして、仄かに残る温もりを逃がさないようにと握りしめる。
すると、突然引き戸が開き○○が下を向きながら現れた。
無言のまま神威との距離を詰めていくと、○○は腕を伸ばし、神威の首巻きを乱暴に掴み引き寄せた。
「わ、わっと……」
バランスを崩し蹌踉めいた神威の頬へ、○○は唇を落とす。
『おやすみ、坊や。今度女の子の愛で方を教えてあげる』
○○は何事も無かったかのように踵を返し、家内に入り玄関の鍵を掛けた。
もう引き戸が開く気配は無い。
神威はしばらく目を丸くした後、喜びにも似た笑みを浮かべ、乱れた首巻きを直す。
「ずるいなあ、全く……」
手摺に足を掛け飛び降り、彼は闇夜に呟いた。
なんの因果で他人がいとし
育てられたる親よりも***
2014/11/14
(狼さんより上手)
DROOM:出典