小説 | ナノ


  河童


暗く狭い道、昔話宜しくまるで岩戸に雲隠れしているようだと思った。
くぐもったように聞こえる人の声に導かれるようにその方へ進む。
人の声が近くなるにつれて視界が明るくなる、まるで瞼を閉じながら太陽を見たような赤い世界が見える。明るくて、眩しくて、私はゆっくりと瞼を開こうとする。

「――もどしてください」

ガタン、と体が飛び上がった。

「そろそろ着きますよ、○○」
『あ……薬売り、さん……』

夢を見ていたようだ。
まだ少し重たい瞼を開くと、見慣れた鮮やかな水色の着物を着た男――薬売りさんが隣にいた。
彼の薄茶色の長い髪が上下に跳ね、彼の足元に置いてある薬箱もガチャガチャと音を立てる。
私は人力車に乗っていたことを思い出した。

「随分、深い眠りに入っていたようで」
『なんだか不思議な夢だったような気がします、たぶん』

どんな夢だったのか、もうほとんど覚えていない。
しかし、目覚める直前に聞こえた女の人の声は確かに覚えている。どういう意味だったのかまるで分からなくて、目が覚めても理解できなかったその言葉がずっと頭の中を回っている。
そう悶々としていると人力車は止まり、私は気まぐれに伸ばされた薬売りさんの手を取って人力車から降りた。

『北国だというのに暑いですね』
「夏は、暑いものだが」
『そりゃそうですけど……』

照りつけるような太陽の下、人気も少ない山道を抜け、長い川に沿って歩いて行くと拓けた場所に出た。四方を山々に囲まれたその農村は珍しくも栄えており、城下町の賑わいを見せている。

『結構栄えてますね、ややこの声も聞こえます』
「そう、ですね」

しばらく宿を探しながら村内を歩いていると、川辺に人だかりができているのが見えた。何の声も発さずに機は熟したと言わんばかりの足取りで進んでいく薬売りさんを見る限り、この群衆が喜ばしいものではないことを悟った。

(嫌だなあ……)

一歩一歩近付く度に鼓動が速まるのを感じ、本能が危険信号を発しているようだった。あの人だかりの先に何があるのか、まだ見えてもいないのに心臓を掴まれたような息苦しさに襲われる。
これは駄目だ、行っては駄目だと冷や汗が出、足が地面に縫い付けられたように動かない私を尻目に、薬売りさんは重い薬箱を背にうまく人の間を縫って人混みに溶け込んでいく。

『待って、薬売りさん! ……ひっ!』

無理やり体を動かして、なんとか群がる村人たちを掻き分けた先には大きな芋虫がいた。人の服を着た大きな芋虫。否、よく見るとそれは手足をもがれた四肢の無い子どもの死体だった。
目を背けたくなるような有り様と、生臭く水っぽい腐敗臭、そして仄かな血の臭いが鼻に付いた。

『なに、これ……』

見なければよかった、薬売りさんを追いかけなければよかった、と遅すぎる後悔の念が押し寄せる。
あまりの悪臭に鼻での呼吸をやめ、口呼吸をする。そこはかとなく口の中に酸っぱさを感じ始め、お腹の底から何かが湧き上がりそうな感覚をなんとか制していると、どこかで汚い水音がした。誰かが吐いたのだ。

しかし、動揺とざわめきの中、一瞬だけ水を打ったような静寂が訪れた。

「――もどしてください」

小さく、掠れた女の声。
夢で聞いたあの声、記憶の断片に残るあの声と同じだと気付いた途端に体中が寒気に襲われ、夏だというのに鳥肌が立った。

(今の声……)

ハッ、と息を呑む。すると静止していた時間が再び動き出したのか、村人たちの声と川の音が鼓膜に届き始めた。
彼らには女の声が聞こえていなかったようで、野次馬の騒々しさは先ほどと何も変わらない。

「それにしても赤巌さんも可哀想になあ、あの子だけは生きのびると思っていたのに」
「こう何人も続いてると、なんかの呪いかねぇ。恐ろしや恐ろしや」
「噂が耐えねーお家だなぁ。旦那が駄賃付に行ってるっていうのに……気の毒なもんだ」

私のすぐ横にいた二人の老齢の男性が口々に言っているので、私は情報収集のためにも聞き耳を立て、様子を伺う。

(あか、いわ……?)

どうやらこの子どもは赤巌という家の子どもらしい、という情報を手にしたところで視界の片隅で人を押しのけて駆け寄る小さな影が見えた。
影の正体は腰の曲がった老婆で、抱えてきた菰を子どもの上に被せ念仏を唱え始める。
他の人々も手を合わせて、しばしの黙祷を捧げていた。

「ここに住み着いてるモノと思っていたが……そうではないらしいな」
『……ということは、アレはモノノ怪の仕業なんですか?』

分かりきった答えだった。返答の代わりに小さく折りたたまれた札が渡される。お守り代わりだ。
彼が背負う薬箱に納められている退魔の剣の反応が無いからか、事件現場である川辺に見切りをつけて薬売りさんは踵を返した。

「おーう、通してくれ」

後ろから男性の声が聞こえ、数歩右側へ移動する。戸板のような木の板を持った若者組の二人が駆け足で過ぎ去って行き、菰が掛けられた手足の無い死体を乗せると来た道を戻っていく。
当たり前のようにその後ろをついていく薬売りさんを追いかけると、周りの家より一際大きい屋敷に辿り着いた。
母屋と厩が繋がっているこの地方特有の建築様式である〈曲り家〉。
その前に立っていた下女らしき若い女性は運ばれてきた死体を見て、慌てて家の中に飛び込んでいった。
それを横目で見ながら薬売りさんは流れるような動作で家の外壁に札を貼り付け、下駄を鳴らして敷居を跨ぐ。続いて私もあまり気乗りしないままそれを跨いだ。

「お昌ちゃん、俺たちもう帰るからよ! お絹さんに宜しく……」

運ばれてきた子どもの死体は土間上の玄関床に置かれ、担いできたニ人はそさくさと引き上げていった。
胸騒ぎ。これまで薬売りさんと旅をしてきたからこそ体で感じることができるそれは、ただの思いこみによるものではない。

『なんか嫌な予感がしますね』
「なるほど、元凶はこの家か……」
『元凶って……薬売りさん、私たちも今日の宿を探さなくちゃいけないので……そろそろお暇しましょうよ……』
「……何を、言っているんです?」

薬売りさんが口角を上げたまま視線を斜め後ろへと移す。

『うそ!? 戸なんて閉まってなかったのに!』

二人の男が出て行った時には開いていたはずの戸口には、立派な家には似つかわしくない薄板を繋ぎあわせたような戸板が立てられていた。駆け寄って開けようと試みるが押しても引いてもびくともしなかった。
まるで樽の蓋のようなそれを力任せに叩くと、ドンドンドン、と音は鳴ったが一向に開かない。

「下がっていろ」

私が薬売りさんに言われるまま数歩、戸から離れると彼の手から数十枚の札が投げ放たれ薄板に貼り付いた。札にはたちまち黒い紋様が浮き出、間もなく目を象ったような赤い紋様へと形を変えた。

「早いな」

すぐに反応を示した札に鋭い顔をした薬売りさんが呟く。
そんな彼の呟きすらもはっきり聞こえるほどの静寂の中で雨漏りのような水音が聞こえた。

(何の音……?)

この村に来るときには雨雲なんて見えなかったのに、と木枠の嵌められた窓を見やる。雨は降ってはいなかった。
刹那、細長く白い何かが重力に従い芋虫の横に落ちた。
水分を含んだそれなりに質量のある物を落としたような耳障りな四つの落下音の後、濡れたそれらは僅かな血を滲ませ辺りに薄赤い水たまりを作った。手足だ。
私は驚きと恐怖のあまり声が出なかった。二三拍置いたところで絹を裂くような悲鳴が喉から出るすんでのところで自制し、奥歯を噛み締めなんとか声を押し殺す。

「草太ぁ!!」

家の奥から下女と女主人と思しき年増の女性が現れ、私たちには目もくれず横たわる童の死体へと駆け寄った。その童の名前を何度も呼ぶが返事がされるわけもなく、ただただ泣き崩れる。

「…………どちら様です」

絞りだすような小さな声だった。しかしその声音には怒気も孕んでおり、やっとこちらを向いた睨み付けるような女性の形相に私の肩はビクリ、と跳ねる。

「おお、怖い怖い。私たちはただの薬売り、ですよ。それに貴方のご子息を殺めたのは曲者なんかじゃない」

淡々と答える薬売りさんに

「じゃ、じゃあ……一体なんだと言うんです!! そもそもこんな時に薬売りって……死人につける薬でもお持ちなんですか」

と、女性は声を荒げる。
「まあまあ、落ち着いて」と薬売りさんがゆっくりと宥めるように言った途端、空気が重たくなったように耳鳴りがし始めた。薄板の戸が叩かれる音が響き出す。
トントントントンと切羽詰まったように連続して音が鳴り続いている。

『そ、外から人が……!』

呼応しようと私も叩き返そうとしたが薬売りさんに「行ってはいけない」と阻まれる。

「よく見ろ」

彼に促されるまま私は今も殴打音が鳴り続ける戸板の方へ目を向ける。
札が張り巡らされた戸板、無数の赤い目の紋様が浮き出てこちらを凝視している。
そしてふと我に返り、速まる鼓動を感じながら状況を整理する。

『札が、赤くなったら……それは……』

――札に赤い紋様が浮き出ているときはその札の力が働いているということ。今にも壊れそうな薄板が札の力をもってして保たれており、辛うじて外と内の線引きができている状況。そして何より、あの板の向こうにいるだろう存在。背中が粟立つ感覚。

『……モノノ怪がそこにいると思え』
「そうだ。決して開けるな。下手人は人じゃない」

恐怖を駆り立てるように戸板が叩き鳴らされる。
取り乱した下女の悲鳴が響く。

『下手人は人じゃない……』

「やっぱり! やっぱりこの家は呪われてるのよ! みんなが噂してるの知ってるもの! そもそもおかしいのよ、生まれてくる子がみんな死んでいくなんて! 今度は草太くんまで……」
「やめなさい、お昌!」

戸を叩く音が止まないため恐怖のあまり錯乱状態に陥った下女は、諌める雇主の言葉も耳には届いていないようで、目をこれでもかと開いて家中を忙しなく歩き回る。

「だっておかしいじゃないですか! 私がこの家に奉公に来てからもう三人も亡くなっているんですよ! その上みんながみんな手足が無いなんて!」

下女のお昌さんが吐き捨てるように言った言葉が引っ掛かり復唱する。

『みんな手足が、無い……?』
「……ほう、それは……興味深い」

私はふと川辺で聞いた話を思い出す。
野次馬の男性たちが話していた内容とお昌さんが今言った言葉を照らし合わせると、この赤巌家では草太くんを含め、三人もしくはそれ以上の子どもが皆、四肢を切断された状態で死亡していることになる。
もし、狙って赤巌家の子どもが殺害されているのだと仮定すると、草太くんより前の子どもの殺害はモノノ怪の仕業ではなく人間の仕業であるとしたらよほどこの家に怨恨がある者が下手人である可能性があり、同時にこの家が恨みを買うようなことをしていたということにもなる。
また、全てがモノノ怪の仕業であるとしてもこの家には「何か」があることは確かだ。
兎にも角にも、今回の草太くんに関しては人間の仕業ではないことは薬売りさんと私は分かっている。ならば――――。

「この家にはモノノ怪がいる。それを斬らねばならない」

そう言って、薬売りさんは薬箱の下から二段目の引き出しから人ならざるものとの距離を測る天秤を取り出した。
土間を始め家中のいたるところに意思を持ったようにきちんと整列し始めたそれらは、数十個を越え、自らの位置に着くなり殴打音が鳴り続ける戸口の方に傾いた。

「さっきから物の怪物の怪って一体何なんです!? そんなこと言って下手人は貴方たちなんでしょう?」
「ほう、あなたはこれが人の仕業だとお思いか? まあ、それならどれほどよかったか……」

薬売りさんは薬箱の一番上の引き出しから物々しい葡萄色の木箱を取り出すと、中に納められていた短剣を構えた。獅子の顔が柄の頭(かしら)に装飾されているものだ。
一介の薬売りが短剣を持ち歩いていることに驚き怪しんでいる二人は、声にこそ出さないが何かを言いたげな視線を送り、怪訝そうな顔をしている。

「なあに、心配しなくても人を斬るためのものではございやせんぜ。これは退魔の剣。モノノ怪をね、斬るんですよ」

ふと鈴の音が鳴る。モノノ怪との距離を示す天秤が水平に戻ったことを知らせる音だった。
今まで耳についていた戸を叩く音が嘘のように消え、久しぶりに訪れた静寂に私はほっと胸を撫で下ろす。

『どこかへ行ったようですね』
「ああ。だが外はまだモノノ怪の領分だ」

「気を抜くんじゃない」と言って、薬売りさんは床上に寝かされている草太くんの遺体に近づき、それを調べ始めた。
私も彼の後に隠れながら草太くんを見る。よく見ると、もがれた右足の足首には紫色の手形がついていた。成人男性の手はおろか私の手よりも小さいそれには、指と指の間に水かきのような膜の跡が確認できた。
勿論、このことに薬売りさんも気付いているようで、

「手足のない遺体、川辺での怪異、子どもの手に……水かき、か」

と、遺体からモノノ怪の形を探っていく。

「こりゃあ……河童だ」

薬売りさんが持つ剣の獅子の口が一度音を立てて噛み合い、カチリ、と心地良い音が鳴った。
彼が捉えたモノノ怪の形が正しかった証拠だ。

『河童って……あの小川芋銭が描くような、あれのことですか?』
「あぁそうだ」

再び鈴の音が鳴った。天秤が傾き薬売りさんを導くように凛とした音が連鎖する。
私たちは息を呑み、剣を構えながら次々と傾く天秤を追う薬売りさんを目で追いかける。
私がいるヤダガマ(馬の飼料を煮る鍋)前からもっと奥にある厩の前あたりで天秤は傾くのを止め、上下に微動した。細やかに軽い金属の音が間隔を空けずに鳴り続ける。

『うそ……もう中にいるの…?』
「結界を破らずに入ってくるとは……いや、元からいた、か……」

顔には出さないが薬売りさんも驚いているようだった。
絶望を貼り付けたような顔をしている下女のお昌さんと赤巌さんは、

「あ、あなた! 物の怪を斬るとか言っていましたよね!」

と薬売りさんに詰め寄る。

「ええ。だが、退魔の剣を抜くには条件がある。斬るモノの〈形〉〈真〉〈理〉の三つが揃わなければ剣は抜けん」
「そ、そんな……」
「モノノ怪の〈形〉を成すのは人の因果と縁。〈真〉とは事の有り様。〈理〉とは心の有り様。――よって、皆々様の真と理、お聞かせ願いたく候」

薬売りさんの芝居台詞のような言い回しが終わると、天秤の両端に吊り下げられた鈴が激しく鳴った。

(来る……!)

土間床の一部がゆっくりゆっくり隆起し始める。
高く盛り上がった土から何かが押し出されるその様子に、私たちは目を逸らせなくなっていた。

『樽……?』

薬売りさんの足元に突如として顕れた古ぼけた樽。何度瞬きを繰り返しても、その樽はそこにあり続けたままだ。微かに動く。トントントン、と樽の蓋が内側から小さく叩かれているようだった。

「そ、それは……!!」
「ほお、見覚えがおありなんで?」

狼狽える屋敷の女主はそれを見た途端血相を変え、怯えたように体を震わせた。
間もなくして狂ったように悲鳴をあげ取り乱す。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
「どうやら〈真〉の一部はこれのようだな」

私は取り乱す尋常ならない彼女の行動に恐怖を覚え、ただ呆然とその場に立ち尽くした。

『あ……あ……』

一升樽の蓋がゆっくりと上へ押し上げられる。蓋が土間床に落ち、軽い音がした。
樽の中から赤黒い血のような靄が噴出される。煙より実体を持ち、液体より浮力のあるそれはモノノ怪から発せられる妖気であることを私は知っていた。

「くっ……」

近くの札が次々と真っ赤に染まり朽ちていく様を見、薬売りさんが悲痛な表情を浮かべる。
未だに抜けない退魔の剣を構えながら、彼は大声で私に二人を奥へ連れて行くように命じた。

『二人共早く!』

震える足に活を入れて、二人を奥の部屋へと促す。逃げるように走っていったお昌さんに続き、うずくまったまま動かない赤巌さんの両脇に手を入れて引きずった。
しばらくして、壁に札を張り巡らせ、時間稼ぎをし終えた薬売りさんもこの家の最奥である奥座敷まで辿り着き、同じように札を貼った。

「アレを斬らねばならん。いい加減教えてくれはしませんかね」

薬売りさんの有無を言わせない物言いに女性は観念したかのように口を開いた。

「子を産んだけど死産だったのよ……農繁期で忙しくて、きちんと埋葬してあげられなかった……」
『じゃあ、あの樽は……』
「埋めたのよ、死産した子を入れて」
「死産した子どもを忙しさにかまけて埋葬せず、弔わなかった、そのために子どもが祟り怒っている、と……それが〈真〉と〈理〉か?」

こくりと頷く彼女の供述に私はなぜか納得ができなかった。
死者をきちんと弔わなかったという罪悪感だけでは、先ほどの樽を目の前にした彼女の行動が不自然に思えたからだ。
確かにモノノ怪の思う理と私たち人間が思う理は必ずしも一致するとは言えない。薬売りさんから「『逆恨み』という言葉があるだろう」と説明された日が懐かしいが、あの尋常ではないほど取り乱した姿を見ると、どうも彼女の言うことは真や理ではないような気がするのだ。
不満が顔に出ていたのか、薬売りさんは私の口元に手を当て「黙っていろ」と目で訴えた。
私の思考を肯定するように薬売りさんの退魔の剣は一向に鳴る気配がなかった。



「……もどしてください」

背後から声がした。
私の後ろには下女のお昌さんがいるが明らかに彼女の声ではなく、年を召したような張りのない掠れた声だった。しかし、どこかで私は聞いたことがある気がした。
驚いて振り返ると、お昌さんの背後の壁に貼られた札には赤い紋様が浮き出ていた。

「もどしてください」

記憶を辿る。これまでの怪奇のせいで忘れていた記憶を手繰り寄せる。
ふと、人力車で眠っていた時に聞こえた声、川辺の雑踏の中で聞こえた声と一致した。

「かか、さま……」

掠れ気味に女性が言う。
退魔の剣がカタカタ、と身を震わせる。

「あんたの母親の声か?」

薬売りさんの問いに彼女は肯定の言葉を返した。
その声の主は数年前に亡くなった赤巌さんの母だと言った。それでも私はお昌さんもとい赤巌さんのお母さんの言った言葉の意味が理解できないでいた。
お昌さんの目は遠くを見ているように焦点が合っておらず、呼びかけにも反応しない。

「憑かれたな」
『うそ……し、死んでないですよね……』
「時間の問題だが、まだ……」

薬売りさんの言葉を遮ってお昌さんの両腕がいきなり伸ばされた。
赤黒い靄――妖気――が幾重にも巻きついたそれは私たちを攻撃せんと薙ぐように狭い座敷内を暴れる。

「そろそろ本当のことをお話しいただけませんかね……あなたには話す義務がある」

薬売りさんが強い口調で言う。
すると、

「きっとアレに私は殺されるのよ」

ぽつりと呟いた。
薬売りさんが放った数十枚の札は私を取り囲むように宙に浮いており、私は幾分安全な結界の中でそれを聞いた。

「本当は、私、育てたかったのよ……でも、許されなかった……」

この座敷と他の部屋を隔てる襖に貼られた札が瞬時に赤黒く染まり、朽ちていく。
勢い良く開かれた襖の外は、まるで闇のような漆黒と真紅が混じり合い、みっちりと詰まっていた。まるで怨恨と血のようだと思った。
あれに飲み込まれれば生きて帰れないことは本能で分かった。

(どうしよう……逃げられない……)

家の最奥に逃げてしまったため、袋小路となった私たちに残された道はここでモノノ怪に殺されるか、その前に薬売りさんが退魔の剣を抜いてモノノ怪を斬るかの二つに一つだ。

「許されなかった。それは、なぜです?」

薬売りさんが問い返す。

「夫の子では、なかったから。……だから…………」

嫌な予感がした。
家中から何かを叩く音が大きく連続して鳴り出す。つい先程まで土間で聞こえていたそれとは比べ物にならないほど大きく、赤巌さんの声を掻き消すほどだ。
しかし、確かに彼女の口は――

「ころした」

そう動いた。

刹那、薬売りさんの構える退魔の剣の獅子がカチン、と噛み合う。
それを見た薬売りさんが言う。

「モノノ怪の、真を、得たり」

あと、〈理〉だけ。
モノノ怪を斬るための必要条件があと一つになったところで、私は気を抜いていた。
一瞬の安堵だった。油断、だった。
私を囲んでいた札を貫いて、黒く禍々しい触手が伸ばされた。

「○○!」

腹部に激痛が走る。
薬売りさんの焦った声が聞こえた後、私は意識を手放した。



暗く狭い道、昔話宜しくまるで岩戸に雲隠れしているようだと思った。
くぐもったように聞こえる人の声に導かれるようにその方へ進む。
人の声が近くなるにつれて視界が明るくなる、まるで瞼を閉じながら太陽を見たような赤い世界が見える。明るくて、眩しくて、私はゆっくりと瞼を開こうとする。

(……あれ、私、この光景見たことある!)

そのことに気付いた時、視界は鮮明になり、私は土間の端に立っていた。

『薬売りさん……これは……』
「見ておけ」

私の隣には誰よりも頼りになる薬売りさんがいた。
一人じゃない安心感を得た私は、目の前で繰り広げられている光景に視線を移す。
独特な匂いと緊迫した空気、――――お産だった。

見覚えのある出産したばかりの女性は私たちの知る彼女より少し若かったが面影があり、すぐに特定できた。赤巌さんだ。彼女の母親と思しき年老いた女性もいた。そしてそのお産を手伝った産婆の手には赤く産まれたばかりの赤子の姿があった。

「おきますか? もどしますか?」

産婆が問いかける。
ひどく難産だったようで産後直後の赤巌さんは浅く息をするのもやっとのようだった。
見たことがない男性(おそらく赤巌さんのご主人)が複雑そうな顔をして口をもごもごと動かす。何かを言いたげだが、まだそれは空気に触れてはいなかった。

「もどしてください」

あの、嗄れた声だ。
赤巌さんの代わりに、母親が答えたのだ。

「本当に宜しいんで?」
「そんな子、育てられるわけないじゃないですか。不義の子ですよ。あぁ、なんて浅ましい娘なんでしょう」
「ま、待ってかか様……私、その子を、育てたい……」

絞りだすようなか細い声で彼女は言った。
しかし嘆願は受け入れられず、母親は冷たく言い放つ。

「もどしてくださいな」

産婆は返答の代わりに、取り上げていた赤子の首を慣れた手つきで捻り、その細い頸椎をいとも容易く折った。

『ひっ……』

私は怖くなって無意識に薬売りさんの袖を掴んでいた。
彼はそれを気にも留めずに、出産現場を見据えている。
肉塊は慈悲もなく土間の隅へ投げられ、産婆は産婦を診つつ出産の片づけを始めた。

赤巌さんのご主人が私たちの方へ向かって歩いてくる。私たちの姿は見えていないはずなのに私はひどく緊張して息を殺した。
何かを手にした彼は何も言わずに肉塊の元へ歩いていく。手元の鉛色が鈍く光っていた。
刈り時のために研がれた刃を土間に投げ捨てられた赤子に突き立て、みちみちと嫌な音を立てながら肉を切った。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」

念仏を唱えるように赤巌さんが切り刻まれていく赤子に言った。
首を、両腕を、足を切られ人間の形を成さなくなったその肉塊は手近にあった空の一升樽に入れられ、入念に紐で十字に縛られた後に土間に埋められた。

「…………お絹、これで無かったことにしよう。お前も辛いだろうが僕も辛いんだ。どうしてだか分かるね?」

穏やかな口調で男性は言った。
まるで先ほどの蛮行を行った人物とは思えないほどの優男の印象を受けた。


すると景色が変わった。
私たちがいる場所は変わらないがどうやら時が進んだようで、忙しなく夕餉の支度をする赤巌さんがいた。彼女は足の下に埋められた樽があることも忘れ、踏む、踏む、踏む。

「ただいま、今帰ったよ」
「おかえりなさい、もう少ししたら夕餉ができますよ」

彼女の夫も何気なく土間床を、樽の上にかけられた土の上を歩く。

「再生を、望まぬ……か」
『え?』

ぼそりと呟いた薬売りさんの言葉はきちんと聞き取れた。
だが、彼が言った言葉の意味が理解できなかった。

「間引いた子の命の再生を望まない、ということだ」
『え。それは……夜な夜な死者が蘇るってことですか?』
「違う。民間信仰だ。生後間もなく殺した子どもの魂を一度神に返し、育てられる条件が整った時に再び腹に宿るように、と行う転生の呪(まじな)いがある……」

それなら! と、ほんの少しの希望の光が見えた気がした。
あの蛮行が次の転生を望むゆえの行為だとしたら、幾分心も軽くなる。

「だが、その呪いは〈再生を望む〉ゆえに行われる場合と〈再生を決して望まない〉ために行われる場合の相反する二つの意味を持つ。人の足で踏まれる場所に埋めるということは――」

私は始めに薬売りさんが呟いた言葉の意味をやっと理解した。
彼の続く言葉を聞くまでもない。

「再生を望まない」

崩れ落ちる感覚と行き場のない悲しみが私を襲った。
何もかもに無気力になりそうな脱力感。

瞬きをする。

再び世界が変わった。
赤巌さん夫婦のもとに子どもがいた。小さい女の子。今度は樽に入れられることもなく、可愛がられ良好な家庭の元、育てられていた。しかしすくすくと成長していったその子は七つを前に亡くなった。
カタカタカタ、と武者震いをするように退魔の剣が身を震わす。

「急くな」

と、薬売りさんは宥め、少女の亡骸を見る。
四肢が切断され、芋虫のような状態だった。
その次の子も、次の子も、またその次の子も、産まれては育ち死んでいった。

「こいつの〈理〉が分からないな」

おそらく薬売りさんの中で、〈理〉になり得ると考えられる候補はいくつかあるが決定打がないのだろう。
一番恨みがあるだろう母親や殺した張本人である産婆、切り刻み人の形を崩した父親には一切その毒手は伸ばさないからだ。狙い殺すのは、皆生まれてくる子どもばかり。

『たぶんですけど……許せないんだと思います。あと、羨ましいんだと……』

聞き流されるだろうと思いつつも、私は持論を言った。

「それはなぜ?」
『母親には望まれた命だったのに、再生を許されず、自分以外の赤子が歓迎され愛でられるから』

ほう、と薬売りさんは唸る。

「自分が、生まれたい」

カチン、と鳴った。
薬売りさんが伏し目がちに退魔の剣を見る。

「モノノ怪の、〈理〉を得たり。――よって、剣を解き放つ」

薬売りさんがそう言うと、私は強い力に引き戻されるような感覚に陥った。
魂を何かに掴まれ引っ張られるような浮遊感を感じながら私は自分の体に戻ってきた。
腹部に受けた鈍痛で目が覚める。重たい瞼を開くと、先程までいた赤巌家の奥座敷だった。

『いたたた……』

――戻ってきた。
この現象を薬売りさんに問うたことがある。彼は幽体離脱だと言ったが私はそんな高等術を自分の意思で行える能力はない。おそらく今回もモノノ怪によって中身や意識だけを引き抜かれたのだろうと勝手に推測し、納得した気になった。
奥座敷で気を失ったままの二人をそのままに、私の足は自然と廊下を歩き、土間へと向かっていた。

『薬売りさん!』

そこには厩横に掛けられた鋤を持った薬売りさんがいた。

「それを持って来てくれ」

それ、と言われ目配せされた先にあったのはあの一升樽だった。
脳裏に浮かぶ血なまぐさい行為を払拭するように頭を振り、私はその樽を持った。
それは中身が入っていないのではないかと思えるぐらい軽く、空樽と言われても疑わないほどだった。

『ずっとここから出たかったんですかね』
「……さあ、どうだか」

家のすぐ横に穴を掘り、樽を埋葬した。

『次に生まれてくるときはきっと…………』

しゃがみ、手を合わせている間に薬売りさんは彼の薬箱と私の笠と風呂敷を持って来たようで、下駄を鳴らし赤巌家を去っていく。
相変わらずだな、私は笠を被り後を追いかけた。

――――今日の宿を探さなければ。



***

2015/08/18
『遠野物語』「河童」より


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